豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛。その官兵衛は晩年、「学問の神様」として知られる太宰府天満宮の境内に住んでいたことをご存知でしょうか?
慶長五年(1600年)、『天下分け目の戦い』関が原の合戦が起こり、黒田官兵衛の長男・黒田長政は関が原の地で活躍。関が原の合戦の勝敗を決めた武将の調略のほとんどに関わり、合戦時では石田三成隊と正面からぶつかるなど、関が原の合戦の東軍の勝利に大いに貢献しました。
また父親の官兵衛は、九州の土地で東軍として戦い、わずかな期間で九州の大部分を東軍の勢力下に収めました。二人の功績が徳川家康に認められ、黒田家は筑前五十二万石(正確には五十万二千石ほど)を与えられました。
筑前国は小早川家が治めていたのですが、当主である黒田長政は小早川家の居城だった名島城(現在の福岡市東区名島にあった城)に入りました。ただ、当時は如水と名乗っていた官兵衛は城には入らず、博多商人の神屋宗湛の屋敷などに宿泊していたようです。
名島城は城下町が手狭ということもあり、黒田親子は博多に隣接した福岡に城を築くことにしました。その福岡城がある程度出来上がるまで、官兵衛が住まいした場所が太宰府だったのです。
官兵衛は連歌を嗜んでいて、『文道の太祖」と呼ばれた菅原道真(天神様)を尊敬していました。太宰府天満宮(その頃は『安楽寺天満宮』)は菅原道真のお墓の上に建てられた菅原道真公の廟所であり、官兵衛は天神様への尊敬の念から太宰府天満宮の境内に移り住んだのです(一説には官兵衛の夢の中に天神様が出てきたので、太宰府に住むことを決意したそうです)。
官兵衛が太宰府に住んでいた期間は一年半ほどで、太宰府では好きな連歌を詠んでいました(太宰府には今でも『連歌屋』という優雅な地名が残っています。)
官兵衛が太宰府天満宮にいたのは一年半ほどでしたが、現在でも黒田如水こと官兵衛が使ったとされる『如水の井戸』と官兵衛を祀る如水社が残っています。それを紹介しましょう。
『如水の井戸』と如水社があるのは、心字ヶ池の東側、太宰府天満宮宝物殿のすぐ近くにあります。
天満宮の方の説明だと、官兵衛はこの宝物殿の所に庵を建てて暮らしていたそうです。
『如水の井戸』はここに暮らしていた官兵衛が使っていた井戸で、官兵衛はこの井戸から汲んだ水でお茶を点てていたそうです。
『如水の井戸』の奥に鎮座する小さな社が、黒田如水こと官兵衛を祀る如水社です。
福岡県内で黒田官兵衛を祀る神社は、福岡市中央区にある光雲神社や北九州市八幡西区の春日神社がありますが、黒田官兵衛を単独で祀った社は私の知る限りではこの如水社だけだと思います。
なお、如水社の前には『目薬の木』が植えられてますが、これは去年の五月に大河ドラマ『軍師官兵衛』を記念して植えられたものなのだそうです。
大河ドラマ『軍師官兵衛』の影響で、如水社に立ち寄る人も増えましたが、以前は存在を知る人はほとんどおらず、太宰府天満宮の知られざる場所の一つでした。
如水社は昭和63年(1988年)に建立された比較的新しい社ですが、光雲神社や北九州市の春日神社と並んで、黒田官兵衛を祀る数少ない神社の一つです。ぜひ大河ドラマの影響で参拝者が増えてほしいものです。
ところで、太宰府天満宮門前では今年(2014年)の3月21日まで、第16回門前まつりの一環として『太宰府官兵衛クイズ』を実施してます。
用意されたクイズ用紙に答えを書いて、西鉄太宰府駅構内にある観光案内所に持っていくと、正解者に限り抽選を行うことができ、当たりが出ると特製醤油がもらえるようです。期間中、太宰府に行くことがありましたらぜひともチャレンジしてみてください。(ただし、数に限りがあるようです)
ちなみに筆者はいきなり醤油を当ててしまいました。これはもしかして如水社のご利益なのでしょうか?
ここで黒田官兵衛の晩年に話を戻します。太宰府で連歌を楽しんでいた官兵衛でしたが、福岡城がある程度完成すると、福岡城の二の丸の屋敷に移りました。それからはわずかな供を連れただけで福岡の城下町に出て、子供たちと遊んでいたといいます。そして慶長九年(1604年)、京都伏見の黒田藩邸で亡くなりました(福岡で亡くなったという説もあります)。
官兵衛はキリシタンでしたが、官兵衛の死を聞いた太宰府天満宮の神官たちは、官兵衛の好きだった連歌を天神様に奉納し、官兵衛の冥福を祈ったといいます。稀代の軍師・官兵衛は太宰府天満宮の神官たちからも慕われていたようです。