世界はゆっくり思い通りに進化する

  by 池波千聖  Tags :  

Windows 95が発売されてから、はや18年。
いま18歳の若者は、ネットも生活環境の一部として当たり前に育っているし、この変化をリアルタイムに経験してきた世代にとっても、ITへの興味の有る無しにかかわらず、メールの送受信やインターネットを使うことは、すっかり日常的な事となった。
わたしはその変化を見てきた世代になるのだけれど、ITガジェットを複数台使うようになったのは……思えば子供の頃の使い方から発展してきている。

1983年初代MSX発売。1990年MSXturboR発売。
わたしは小学生の時に “ はじめてのコンピューター ” を買ってもらった。
初代MSXはソニー、MSXturboRは松下だった。
ていうかMSXturboRは松下しか出してなかったんだな。

京都高島屋の上の方の階に松下のショウルームがあって、よく遊びに行ってたなぁ。
MSXturboRがパソコン通信に接続した状態で実機展示してあったし、その他にもオーディオ機器の体内の解説とか、超高級TVのコンセプトの展示だとか、あのショウルームの豪華さはバブル崩壊前だったのかも知れないなぁ(笑)
だったらあれは中学の頃かなぁ。楽しかったなぁ。
高島屋のMSXturboRから、パソ通上のいつものチャットルームにアクセスして、
「千聖ですー」
「あれ?IDちがくね?」
「高島屋に展示してあるマシンからですー」
「なら電話代かからないね!」
とかいうことをしていたなぁ(笑)

余談だけど、そこはわたしの女子的な歴史の始まりの場所でもある。
そこに行く時は東エスカレーターで昇り、帰る時は西エスカレーターで降りていた。
1階の西エスカレーター降り口の前に、いまで使用歴15年になる化粧品ブランド『IPSA』のコーナーもあったのだよ。

1990年代前半。
結局、MSXturboRはワープロとしてしか使っていなかったのだけど、当時から文字をいっぱい書いていたわたしとしては、“ メモとシャーペンと消しゴム ” ではなくデジタルで文字を書けるようになったのはすごく快適だった。
高校の部活で12ページほどの冊子を作った時、原稿をデジタルで書いてしまいたくて、部費で部専用のワープロ機を買った。わたしの独断で(笑)
家で書いた文章の続きを部室のワープロで書けるように「MS-DOS互換」のワープロを選んだ。
今調べると、当時の16ビット市場ではMS-DOS(PC DOS)が主流だったらしい。
MSXturboRも「MS-DOS互換」を謳っていて、互換機と互換機の間ではワープロファイルそのものの受け渡しはできないけど、書いたテキストだけはやり取りさせることができて、わたしの用途としてはそれで十分だった。
これがわたしの、「どこに行っても何を使っても同じ作業の続きができる」という使い方の始まりだ。

自分の体は一つしか無い。
ある作業をできるマシンが一つしか無くて、そのマシンが例えば家に固定されていると、その作業をするためには、わたしは家に帰らねばならない。
でもわたしの行った先々に同じ事を出来るマシンがあれば、わたしはマシンに行動を束縛されず自由に動ける。
その後、常に連れて歩けるマシンが登場してさらに自由度が増した。

高校の頃のエピソードはそんな感じで、美術系短大の頃は周りがポケベルを使っていて、社会人になって携帯電話を持つようになったけど……短大の間はパソコン使ってなかったのか?といま考えてみたら、短大の論文もMSXturboRで書いてたわ(笑)
あの使いにくいマシンと使いにくいプリンターで、よくもまぁ原稿用紙に印刷なんてやってたもんだ(笑)
あの頃は、「絵を描くこと」の方がメインだったから、あんまり記憶に残ってないんだろうな。

1995年3月短大卒業。
同世代の人が新社会人になった当時、パソコンは会社にしか無かったんじゃないだろうか。
家に本格的なパソコンがやってきたのは、妹が美大に入学した時だった。当然Macだ。
一家に一台のパソコン、とは言え妹のために買ったものなのだから、あまりわたしは使えない。
なのでインターネットの使い方を覚えたのは会社のパソコンだ。それもMacだけど。
ついでにサイトの作り方を勉強したのもこの頃だ。デザイン会社だったので。
そうだ、そう言えば、家のMacを買った当時は、「パソコン買ったらプロバイダも契約」って常識がまだ無かったぞ。
デザイン会社の仕事で毎日終電で帰っていた時、「家のMacもネットに繋がってたら、こんな終電ギリギリまで会社で粘らなくても、家で作業を続けられるのになぁ」と思ったもんだ。
そのためにプロバイダー契約したろうかとかなり本気で考えたけど、その費用を会社が出してくれるわけじゃないしなぁ、と思ってあの時はしなかったのだ。
結局、家にネット開通したのは、妹が美大を卒業して印刷会社に就職が決まった時だ。

その話は妬みかと言われれば多少は無くもないけど、それより大きいのは時代の違いだ。
2歳離れてるだけで、時代が違ったのだ。

1999年 iモード等ケータイでのネット接続 スタート。
携帯電話にネットやメールの機能がついて、デジタル文字を持ち歩きデバイスで書くことが出来るようになったのもこの頃だ。
会社のMacと、自分のケータイと、家のMacと、の三者間でデジタル文字をやり取りしたいので、自ずと文字を書く場所としてネットにつながっている場所を選ぶようになる。
なのでわたしはWebメールを使っている。
身近な人とはケータイメールでもやり取りしていたけど、当初は保存容量が少なくて数日前のメールからすぐ消去されてしまうのが不満だったんだな。
デザイン会社をやめて派遣でパソコン販売員をやるようになると、なおさらメールでやり取りする文字数も回数も重要度も上がって、Webメールをメインに、その受信通知をケータイに、という使い分けをするようになった。
今時だったら、ケータイメールでも文字数と保存容量は全然問題無いだろうけどね。
今度はセキュリティ対策で、初期設定ではケータイ同士しかメールできないようになってるから、なおさらわたしには不便なメールのままなんだな。
一方Webメールは、メール本文だけでなく、考えた事や、その日の予定、買い物メモ、ブックマーク(☆お気に入り)、写真も添付する形で保管するようになった。
つまりWebメールをクラウドストレージ化してたんだよね(笑)

今に至る。
とまぁ、これぐらいまで来ると、わたしにとってDropboxやEvernoteが待ちわびていたものだということは、想像に難くないかと。
機械を複数持ってる理由は、“機械が好き”と言うより“使い方”なんだな。
「どこに行っても何を使っても同じ作業の続きができる」状態を作っているのだよ。

機械たちが進化して、わたしが不自由なく使えるようになったのかといえば、まだ完全ではない。
iPhoneでは画面が狭い。
iPadなら画面は広いけど、ソフトウェアキーボードが使いづらい。
MacBook Airなら画面が広くてハードキーボードも使えるけど、パワーが足りない。Adobe PhotoshopとIllustratorも使いたいからね。
MacBook Proなら何でもこなせるハイパワーだけど、わたしには重たすぎる。
デジカメで撮った写真もリアルタイムでクラウドにアップさせられるようにはなってきたけど、「何不自由なく」と言うにはまだまだ現実的でない部分が多い。
今後新たに開発されるガジェットたちがどんな風にわたし達を自由にしてくれるのか、まだまだ楽しみだ。

ネコ型人間なアダルト女子。 気が付けばリンゴまみれ。 過敏性腸症候群&食道裂孔ヘルニア。 ライター 兼 イラストレーター。 『ルミナリエ』輝く街に在住。

Twitter: @chisa_ike

Facebook: ikenamiChisato