アメリカにはチャイナタウンがいくつもある。ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、ワシントンDC、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ハワイ… 等など
それらの中で全米チャイナタウンの二大巨頭はニューヨークとサンフランシスコ。規模はニューヨークが大きく雑多な感じで、ニューヨーク自体がゴミが散らばる街だが、こちらのゴミの散らかり具合は激しい。
それと比べて西海岸のサンフランシスコのチャイナタウンは綺麗である。チャイナタウンでありながら生活感がニューヨークと比べて少ない。それにレストランもサンフランシスコの方が清潔感がある。
どちらが好きかは個人の好みだろうが、私は馴染のニューヨークのチャイナタウンの方が好きだ。観光客の集まる地域ではなく、生活者の住む地域がしっくりくるし、わざわざその辺りのスーパーマーケットに買い出しに出かけている。
日本人でその住人地域に買い物に行く人はいないように見えて、レジでのやりとりでは中国語で話しかけられたことがあった。チャイナタウンのスーパーでは、ミッドタウンでは気取ってパックされて高値でうられているもやしが、大盛りの山状態にトングが突き刺さり、安く、しかも新鮮なものが手に入る。大根も長芋も白菜も日本人になじみの野菜が手に入る。
買い物ついでに歩く中国人居住区のチャイナタウンでは、他の地域では見られない外側の非常階段や窓の外を利用して、洗濯物を干している光景が見られる。アメリカ全体で洗濯物を外に干している風景は先ず見ない。ましてや大都会、住宅の密集するマンハッタンで見ることは先ずない…
この生活感満載の光景が好きだ。一瞬、危険な香港の一地区に旅したような気分になる。そこにはニューヨークで生き抜く中国人移民の逞しさがある。人目なんか気にしない中国人の強さがある。
1859年のニューヨークタイムス紙ではマンハッタン居住の中国人は150人と掲載されていたそうだ。マンハッタン全体に散らばって住んでいるのではなく、チャイナタウンにまとまって住んでいたと考えられる。
1882年に中国人排斥法が成立。アメリカ政府が中国人労働者の移住を禁止。中国人には痛手である。チャイナタウンのペル・ストリート、ドイヤーズ・ストリート、モット・ストリートあたりの小さなエリアに、それこそ肩を寄せ合うように暮らし始める。
英語を話さずにアメリカで生き延びる術は、洗濯屋から始まり中国料理のレストランへと移行してゆく。当然、金に関することではもめ事も起き、それを解決すべく組織も形成されるが、後にチャイナタウンではギャンブルなどの賭博が行われ、それに関しては先の中国組織ではなく、日本で言うと山口組のような危険な組織が出てきた。
賭場での問題解決は、話し合いなどという平和手段ではなく殺し合いに発展。その殺人の仕方が鉈を使って死角に隠れての不意打ちの殺人。鉈は本来枝打ちや木を削ったり、動物の解体に使われるもので、それを殺人に使うのだから殺される側もひとたまりもない。
↑上記の写真を見て頂きたい。道が右に急カーブしている様子がわかると思う。直角とは言わないが、かなりの鋭角で不思議な通りだとは以前から思っていた。
最近知って驚愕したのだが、この短い短いドイヤーズ・ストリートこそがアメリカ全土で一番殺人事件が多く起きた通りだと言うのだ。チャイニーズギャングが二手に分かれて抗争を続けた。地下道を作り逃げ道を作ったり、またそこでも殺人は行われた。
それを知って合点は行った。この通りを積極的に通ることはないが、どうも、この短すぎるストリート、その真ん中あたりが急に折れてカーブする奇妙な道に居心地の悪さを感じていた。この短い通りにはレストランや郵便局、また理髪店は複数店舗が横並びしている。そういう悲しい歴史の上に成り立つ通りだったのだ。
↑写真右側の太陽光が当たっている建物は郵便局で、ここにクラブがあり、このクラブで作曲家アーヴィン・バーリンが演奏していたというのに驚かされた。この作曲家は『ホワイト・クリスマス』や、アメリカ合衆国第2の国歌と言われる『ゴッド・ブレス・アメリカ』、ミュージカルナンバーの『ショウほど素敵な商売はない』を残した。
ドイヤーズ・ストリート、またの名を『血塗られた角』と呼ばれている通り。ニューヨークの悲しき街角、その地下には中国人移民が抗争の果て、鉈で惨殺された遺体が埋まっていたのだ。
この通りを歩く人たちは殆どこの歴史を知らないだろう。ニューヨークに長く住んでいる私自身全く知らなかったが、気味悪さは感じていたので真実を知ることにより、静かに大きくため息をついていた。
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