▲『VIDEOPHOBIA』宮崎大祐監督 撮影=藤本洋輔
映画『VIDEOPHOBIA』が10月24日(土)よりK’s cinema、11月7日(土)より池袋シネマ・ロサ、大阪・第七藝術劇場で公開される。本作は、『大和(カリフォルニア)』『TOURISM』の宮崎大祐監督による最新作。大阪のコリアンタウンを舞台に、ひとりの女性が一夜を共にした男との情事を動画でネット上にばらまかれ、映像を世界中に拡散される恐怖と他者からの視線により、精神に失調をきたしていく姿を全編モノクロで描いている。主人公の愛を演じたのは、映画『クシナ』などの廣田朋菜。さらに、『リリイ・シュシュのすべて』などの忍成修吾や、サヘル・ローズらが出演。音楽をBAKU(KAIKOO)、エンディングテーマを大阪出身のラッパーDogg、ヌンチャクらが手がけている。サイバーパンク・テイストの映像、アンダーグラウンドを舞台に「リベンジポルノ」をテーマにした不穏な空気、予告編や様々なビジュアルから読み取れるこうした要素だけでなく、本作には人種的ルーツや土地の文化、そこに住まう人々に対する、宮崎監督の独特の視点が見て取れる。今回のインタビューでは、監督が自身の生い立ちに触れながら、『VIDEOPHOBIA』に込めた表現の原泉について語ってくれた。
※取材は新型コロナウイルス感染拡大を受けた非常事態宣言発布前、2020年3月開催の『第15回大阪アジアン映画祭』にて実施。
モノクローム・サイバー・スリラーと大阪の関係
――企画が生まれた経緯から聞かせてください。
ぼくはもともと、8歳から14歳まで兵庫県の西宮市に住んでいました。当時、週末は三宮や梅田に遊びに行ったりして、思春期を過ごしたところなので思い入れもありますし、いまでも関西への憧憬のようなものがあります。その後、(神奈川県の)大和に引っ越して、映画を撮るようになったんです。ここ4、5年の間に大阪アジアン映画祭に度々ご招待いただいて、毎回来るたびに映画も観たりしつつ、なんとなくロケハンなんかをしながら、「大阪で何かできないか?」と考えていました。ぼくが20代後半のころは、『CO2』(※編注:シネアスト・オーガニゼーション・大阪)とか『関西ゼロ年代』みたいな盛り上がりがあったと思うんですが、最近は大阪の監督や映画の事情をあまり聞かないな、と。「大阪で映画を作るぞ!」みたいな流れを作れないかな、と思っていたときに、『CO2』のディレクターでもある西尾孔志監督と、(2017年の)大阪アジアン映画祭でお会いして、「何か面白いことないですか? 何かやりませんか?」と話をしました。
――西尾さんは、本作のプロデューサーですね。
その後、2018年の7月ごろに『大和(カリフォルニア)』の上映がこちらでありました。レイト枠で昼間に時間が空いていたし、上映期間も2週間くらいあったので、その間に西尾さんと「じゃあ、短編映画でも撮りますか」と。当時、西尾さんは芸能事務所で演技のレッスンをされていて、「事務所の俳優さんを使うので、これくらい出資してくれませんか?」と交渉したり、七藝(第七藝術劇場)さんにも出資のお話をしました。そんな感じで、だいたい1ヶ月くらいで映画を作れる最低限の金額が集まりました。同時に脚本も書いていたので、やると決めてからはすごいスピードで進みましたね。
――大阪という場所ありきの企画だったと。十三や生野も登場していて、画面から独特の多国籍感のようなものが出ていました。
ほかにも、西成とか、此花区とか、大阪じゅうに散り散りになって撮ってはいます。主人公の家が生野区の鶴橋という設定なので、そこをベースに色んな場所で撮影する、という感じでした。「東京や世界の他の都市にはなくて、大阪にあるものは何か?」「大阪を舞台にした映画で紹介されていないものは何か?」と考えたんです。大島渚や神代辰巳の映画では、都市開発が進んで見かけなくなってしまった人たち、いわゆるマイノリティが登場します。東京にはなくなってしまったけど、大阪には今もそういうエリアが残っている気がして、被写体として面白いな、と。ぼく自身、アイデンティティがわからなくなるような映画をずっと作ってきたということもあったので、そういう意味でも生野はいいな、と思っていました。
――モノクロにすることは、企画当初から考えていたんですか?
そうですね。色彩豊かで、ネオンが輝いて……という風に大阪を撮る方は多いと思うんですが、ぼくはわりと天邪鬼なんで、別のやり方で“異化”させるにはどうしたらいいか、と考えました。正直に言うと、予算的に美術に凝れないということもありましたが。じゃあ、街の面白さとか不思議さを活かすにはどうすればいいか? それ自体にフォーカスしてもらうためにモノクロにしよう、と。
――ビジュアルや予告編から「サイバーパンク」な雰囲気を感じるのですが、意識されたのでしょうか?
モノクロから、かつての塚本晋也監督(『鉄男』など)だとか、石井岳龍監督(『爆裂都市/BURST CITY』など)の作品をイメージする方もいらっしゃると思います。それをそのままやってしまうと恥ずかしいな、というのもありました(笑)。「また塚本晋也みたいなのか」と思われることに抵抗がある世代なので……そういう方々にオマージュを捧げ、レファレンス(引用)しつつ、次の世代のモノクロをサイバーな感じに出来ないかな、とは思っていました。
――美術にもこだわりがありそうですが。
大阪には、例えば洋服なんかにも、他のエリアとは違った味があると思うんです。ウルフルズさんのMVなんかを観ていても、ちょっと色彩感覚なんかが他と違っていて。『VIDEOPHOBIA』で言えば、トイレットペーパーをつけたDJなんかがそうですね。本気なのか冗談なのかわからない、どうやったら思いつくのかわからないような奇抜なものが多い気がしていて、そのルックを「サイバーパンク」の文脈に結びつけられないかな、と。
映画『VIDEOPHOBIA』予告編(YouTube)https://youtu.be/DUif7QYZ01I
――トイレットペーパーDJはどういう経緯で誕生したんですか?
あれは、お店のオーナーのハルキくんという人に「DJ役をやってほしい」とお願いしたら、「おもろいもんあるんで、倉庫から取ってきていいですか?」と持ってきてくれたものなんです。顔の前にトイレットペーパーをぶら下げるのかな、と思ったら、カメラが回ったら本当に巻き取り始めたので(笑)。「いいね!見たことないよ、そんなの」ということで、そのまま使いました。
リベンジポルノと自助グループ、表現することと消費することの暴力性
――テーマのひとつである「リベンジポルノ」は、現在の日本らしいものだと思いました。なぜ題材に?
もともと、わかりやすいテーマをベースに物語を広げていくのが好きなんです。リベンジポルノについては以前から題材として興味はあったんですが、それは「何のためにそんなことをするのか?」とか、「本当に復讐目当てで(ネットに動画を)あげるのか?」とか、「そうじゃなければ、誰に向けているのか?」という疑問があったからです。DVや幼児虐待といった問題でも、「被害を受けている対象以外の“何者か”に向けて、犯罪が行われているんじゃないか?」と当時は思っていて。古い文脈だと、「父殺し」というテーマがありますけど、言わば「親試し」の文脈というか、近年の犯罪は誰に向けているのかが気になっていたんです。いたずらっ子のいたずらを、「誰に向けてなんだろう?」と考えるように。リベンジポルノも同様で、例えば「被害者への嫌がらせ以上の何かがあるのではないか?」ということを考えてみたかったんです。あとは、Facebookとかで、亡くなった方の投稿がたまに流れてきますが、ああいったものはいつまで残るものなのかと考えると「怖いな」と思った経験がもとになっています。身体が消えてしまった後にも残ってしまうもの。この感覚を映画のテーマにつなげられないかと思っていました。
――リベンジポルノをテーマにした映画では、加害者へのリベンジが物語のメインになりがちすよね。でも、この作品はちょっと違って、動画をあげた人物=直接的な加害者が誰なのか明確にならず、あいまいに描かれてます。
それは、最初のショットからそうです。なんだかんだ言いながら、観てしまう我々も常に加害者なのではないか?というつもりで撮りました。
――もうひとつ興味深かったのが、「どこまでが私で、どこからがあなた?」というキャッチコピーです。※大阪アジアン映画祭当時のキャッチコピー
あれはぼくが何となくつけたもので、スクリーンの手前と向こう側という意味もあるのですが……一般的には、「意識が体に乗っていて、操縦している」というのが、人間の自己イメージなんだろうと思うんです。でも、体が思ったより動かなかったり、逆にやりたくないのに体が勝手に動いてしまうこともある。そんな中で、人間はどこまで体をコントロール出来ているんだろう?と。例えば握手したり、手を繋いでいるときは、なんなくの境目はわかるんだけど、それは“何となくの境目”で、意識みたいなもの以外は自分と繋がりがないし、同時に全部が繋がっている、と思えてしまう瞬間がありまして。そして、「その人が誰か?」ということは、わりと外見や肩書で定義されると思うんですけど、この映画で描いているのは、どれだけ外見や肩書を変えても、結局自分自身は変わらない。でも、外からの評価は変わってしまう。その境目の“気持ち悪さ”のようなものを表現したいというのはありました。
――リベンジポルノの問題自体を啓発するのが主目的ではないですよね。
そうですね。海外で上映すると、(リベンジポルノの問題について)質問する方や、メディアの取材を受けたりもします。もちろん、考えるべきことだし、考えるべき時期だとは思いますけど、それだけの映画ではないです。さらに一歩進んで、“存在”について考えたい、というところですね。
――リベンジポルノの被害者たちが自助グループで集まるシーンでは、サヘル・ローズさんが主催者役で登場します。みんなで「あなたは悪くない」と唱えるのが、胡散臭く見えたのですが、意識してそう演出された?
サヘルさんの演技もあるんですが、オーバーめで始めてもらって、面白かったのでそのまま使っています。言葉だけで表現することには限界があるな、と思っていて。たぶん、サヘルさんのセリフだけ文字で切り抜くと、それらしい真っ当な言葉をかけているように見えるんですけど、実際にはそうは見えない。表情だったり、言語化できない何とも言えない嫌な感じが作品中にずっと流れるようにしていて、その一環でもあります。実際の自助グループでも前の人の言葉を繰り返す、ということをやるらしくて、あの団体はいつもあの手法でやっているという設定です。ベースはリアルな現在の心理学療法なんですけど、実際にやってみるとエクストリームに見える、という不思議さがありました。
――自助グループを取りあげること自体が日本映画では珍しいですね。
自助グループについては、アルコール依存症の方の集まりをアメリカ映画などで観てはいました。「最新の治療法はどうなっているんだろう?」と思って論文を読んだりしてリサーチしました。特にリベンジポルノの問題では、相談経路や遮断の仕方などの情報はあるんですけど、その先はどうすることもできない場合が多くて。制度上の問題でどうすることもできないというだけじゃなく、倫理的というか、人間存在的に、それ以上は本人に委ねるしかないところがあると思うんです。そこで、アメリカのような心理学が発達している国ではどう対応するのか?と思っていたら、最新の資料にあの方法が出てきて。自助グループはあの集まりの後、みんなで犯罪現場に行って、当時を再現するらしいんです。単純に問題の核心に迫って解決するというよりも、「みんなもそうなんだ」「私だけじゃないんだ」という方向に薄めて、散らしていく方法なのかな、と。でも、申し訳ないんですけど、ぼくにはそれですごくよくなるというのが、悪い冗談にしか思えないところもあって。例えば、1あった痛みを10分割して薄めるということだと思うんですが、1が10倍に増えてしまうんじゃないか?無限に広がっていくんじゃないか?と。トラウマを薄めていくことが2020年最新の施術であるというのが、どう考えても正解とは思えない……ということで、アイロニーとして描いています。
――演技ワークショップのシーンは、リアルなものを目指したのでしょうか?
ワークショップに関しては、ぼくがこれまで他の監督のやっていたのを覗いていたものの総合形のようなイメージです。自分ならどう声をかけるのかと聞かれれば、答えるのが難しいですけど。いつも横で聞いていて、「なんか、これおかしいよね」と思うようなことが、教育というか、演出になっていて。「もっと、魂から!」とか言うのを聞いていると、ぼくはわりと「魂ってなんなの?」と思っちゃうほうなんです(笑)。
――演技ワークショップと自助グループのシーンは、相似関係にあって興味深かったです。
おっしゃるようにあのふたつのシーンは、相似の関係性にあります。基本的に「自分が何者か」という内側のものは、外から定義しないと日常生活って送れないと思うんです。最初のワークショップでは、「お前は誰なんだ?」という核心に迫り、自助グループでは、「みんなもあなたと同じなんだ」と散らせていく。それでもぼくは、「どちらでもない」というようなことがやりたくて。内側は毎日グニャグニャと変わっているもので、それをどう回復したらいいかということは、最終的な答えは今も出せていないんですが、「こうなんじゃないか?」ということは、エンディングでは見せているつもりです。
マイノリティを描くということ
――主人公の愛を演じた廣田朋菜さんが、非常に力強い顔をされている方だと思いました。どんな理由で起用されたのでしょうか?
ご指摘の通り、顔ですね。廣田さんは、ぼくが昔ちょっと手伝った映画に出演されていて、その頃から、いるだけで観客に色んなことを考えさせるような、不思議な顔だと思っていました。廣田さんの顔を全面に打ち出した作品って、これまであまりなかった気がしていたので、「廣田さんの顔でいこう」と。最終的には、きぐるみを着ていても表情が見えてくるような気がするというか……その感覚も、人間の妙な特性というか、刷り込みや思い込みだと思うんですけど。そういった意味で“鏡のような顔”ということでオファーしました。
――愛が在日コリアン三世という設定は、劇中ではそれほど強調されていませんね。何か意図があったのでしょうか?
これも、全体のテーマとつながっています。ぼくの友人には在日の方が結構いて、今回のスタッフにもいました。ぼくと同じぐらいの世代だと、ハングルを少しなら読めるけど、しゃべることはほとんどできない人もいます。もはや名前だけで在日だとわかる程度だったり、もはや肩書や実際ではない理由で“線引き”されている。馬鹿らしいことだと思うんですが、日本語を話して生活しているのに、そういう枠組みだけが残っているんです。大阪には特にそういう人が多くて、たまたまですけどこの映画の舞台になった鶴橋がコリアンタウンだということもあったので、そういうテーマに挑戦したいと思いました。「国籍による違いってなんなの?」ということは、『大和(カリフォルニア)』や『TOURISM』でもチャレンジしてきたんですが、今回もやってみようかな、と。
――ふとしたところで、ふいに出てくる“線引き”ですね。
ほとんと意味がないんだけど、“意味を持たせたい人たち”にとっては、さぞかし重要なんでしょうね、と。三代くらいならまだしも、六代くらいさかのぼったら、ほとんどの人に他の国の血が入っていると思うんですが、なぜかそれが差別や偏見の元になっている。それは、自分にとっては理解できないことなので。とはいえ、そこを強調して、「差別されているんだ!」と訴えたいわけではなく、あたりまえにこういう状況があって、それは同じく当たり前におかしいと思えるはずじゃないのか?ということを描きたかった。
――『大和(カリフォルニア)』『TOURISM』と、ここ数作は女性を主人公とした作品を続けて撮られています。
初期の作品は、自分が描きやすいというのもあって、男性を主人公としたものが多かったんですが。さきほどは在日の話をしましたが、やっぱり女性は社会の圧倒的なマイノリティだと思っていて。ぼくにとっては圧倒的な他者というか、わかりえない、知りえないものだという認識が、10年前くらいからすごく強くなってきました。そういう人たちが、今の社会を見て、どう反応するのか? 自分とわかりあっている人たちが、出会って、「そうだよね」というところにオチる話よりも、想像もしないようなリアクションや表情を見せてくれるな、と思うことがすごく多くて。
――知りたいから題材にする、と。
男性が出てくる映画も撮りたいですし、最近も撮ってはいます。でも基本的には、マイノリティとしての女性たちを通したほうが、映画でしか観られないもの、ぼくらが思いもよらないものが見えるのかな、という気がしていて。そういうことを知りたいということもありますし、ぼくらが見ているのとは違う現実が見えるのかな、と。だから、なるべく撮影の前には事前に話し合いの時間を持つようにしています。「ぼくはこう思うんですけど、どうなんですかね?」「こうはしないんじゃないですか?」とか、シーンごとくらいに。それでもやっぱり、「しょせんは男の考える女だ」と言われることもあるとは思うんですが、その挑戦を繰り返すことで、間隙に何か新しいものが生まれるんじゃないか、と思っています。
――土地に根差した表現にこだわるのは、宮崎監督がアメリカや日本の各地を転々としたことも影響しているのでしょうか?
西宮に来る前に、アメリカに4年半いました。転勤族でいろんなところに引っ越したのですが、一番長いのが大和です。もともとは母の実家で、20年ほど住んでいました。だから、「故郷はどこか?」と聞かれると「大和」なんですけど、いろんなところに移り住んでいた記憶があります。だから、「ぼくの故郷は」とか、「地元の同級生が」という言葉を聞くと、すごくうらやましく思うんですよね。自分の同級生とかが故郷の思い出の話を撮っているときに、「自分は何を撮れるのか?」と考える。転々としてきたことを恥ずかしいと思ったこともあったんですが、だんだんと「どこにでも住んでいて、どこにでも移動できる」と考えるようになると、そういう人はあんまりいないのかな、と。それが、いまのスタイルに結びついていると思います。
――土地に着目して企画を立てる監督は珍しいですね。地方自治体が出資する、いわゆる“ご当地映画”とも違う。
やっぱり、その土地土地に声があると思うんです。誰もが等しく百均で売られてしまいそうな、価値観が均一化しちゃっている世の中で、土地の歴史とか背景は、なかなか数値化できないものだと思っています。そうしたものを撮るのも、映画のひとつの役目なんじゃないかな、と。だから、撮る場所には最大限の敬意を払って、リサーチやシナリオハンティングは相当にやっているつもりです。
――海外から出資を受けた作品もありますが。
『TOURISM』は、シンガポールの美術館と映画祭と政府が出資してくれました。でも、本当に宝くじみたいなものですよ。自分からやりたいとか、金をくれと言ったわけではなくて、ある日電話がかかってきて、「どう?」くらいの流れだったんで。それ以外は、10人、20人くらいの方々に小口で出資していただいて撮るようなスタイルが多いです。転勤族だったこともあって、土地土地でいろんな友達が助けてくれて、そういう人たち経由で出資してもらったり。
――海外からお金を集められる“枠組み”を確立できているわけではないんですね。
なんとなく、「こうやればこれくらいかかる」くらいのお金の流れは見えてきてはいるんですけど、「海外で撮るぞ」と主体的に仕掛けた経験はそれほどなくて。『TOURISM』は、声をかけてもらったんですけど、それ以外はあまりないですね。ただ、今後は考えてやっていきたいと思っています。それは、アメリカなのか、ヨーロッパなのか……なかなか、日本だと次が考えられないというか。
――次の作品は決まっているんでしょうか?
『北新宿2055』という、北新宿=歌舞伎町・新大久保・高田馬場エリアを舞台にした実験映画のような中編を撮りました。ラッパーの漢(a.k.a. GAMI)さんが原作を書いている話で、もうちょっとで完成します。本当に実験的な映画で、あまり動画がないというか、スチールにナレーションを乗せたりしています。劇映画も、大和や神戸が舞台のものをいくつか仕込んでいて、しっかりとした製作体制で作れたらなあという状況です。
『VIDEOPHOBIA』は10月24日(土)よりK’s cinema、11月7日(土)より池袋シネマ・ロサ、第七藝術劇場、他全国順次公開。
インタビュー・文=藤本 洋輔
映画『VIDEOPHOBIA』
(2019年/日本/88分/モノクロ)
監督・脚本:宮崎大祐
音楽:BAKU(KAIKOO)
プロデューサー:西尾孔志
撮影:渡辺寿岳
録音:黄永昌
製作:DEEP END PICTURES、十三・シアター・セブン
出演:廣田朋菜、忍成修吾、芦那すみれ、梅田誠弘、サヘル・ローズ
配給・宣伝:boid/VOICE OF GHOST
宣伝協力:クエストルーム株式会社
公式サイト:http://videophobia2020.com/
(C)「VIDEOPHOBIA」製作委員会