快復の気配なく……横たわったまま美しい謎の病人
宇治の山中にて、比叡山の高僧・僧都一家に助けられた謎の女。若く美しく、身分が高そうな身なりの彼女は瀕死の重体で、時折涙を流し、ただ一言「川に流して」とだけ訴えます。彼女は一体何者なのか……。僧都の妹尼君は、亡くなった娘の生まれ変わりと思い、自分の庵へ連れて帰って必死に看病を続けました。が、数か月が過ぎてもまったく快復する気配は見られません。
「こうまで弱っているのに、今日まで生きているというのは、本来生きるべきこの人の生命を、何者かが妨げているからとしか思えません。兄上、どうかお山を降りて、この人のためにもう一度ご祈祷をして下さい。上京してほしいというのではありません、ほんの近くの、この麓まで降りて下さるだけで結構ですから」。
妹の切なる願いを聞いた僧都は「あれほど衰弱しながらまだ生きているとは。やはり私が見つけるべくして見つけた、何かのご縁のある方なのだろう。ここまできて見捨てることはできまい。もう一度祈ってみて、それでダメなら仕方がない」。
兄の下山を妹は伏し拝んで喜び、ここ数か月の様子を話します。「長患いをしている人というのは、どうしてもむさ苦しくなるものですが、この人はただただきれいなお姿なのです。でも元気になっていく風ではなく、かろうじて生きているという感じです」。今までもたくさんでてきた高貴な人の病気シーンあるある。
「そういえば、助けたその時から、大変美しい方だったね。きっと前世の徳でこのように生まれついたのだと思うが、それにしても一体どんな行き違いで、あんな山中にいたのだろう。何か、高貴の方が失踪したというような話は聞いていないか?」と僧都。
「いいえ、そんな話はまったく。とにかく、初瀬の観音様が死んだ娘の代わりにと、私にお授けくださったとだけ思っています」。
「それもまた仏さまの御縁というものであろう。起こること全てが因縁によって定められた必然、偶然などということはないのだから」。僧都はこう言って、不思議がりながらも祈祷をはじめようとします。が、ここでもう一波乱がありました。
弟子の反対を押し切り祈ると……ついに正体が明らかに
仏教の五戒(守らなければならない5つの教義)では基本的に異性と交わることを“女犯(にょぼん)”として禁じています。そのため、僧都のような高僧が見も知らぬ若い女を助け、親身に祈祷をしてやったことが知れたら、“なまぐさ坊主”ということになりかねない。弟子たちは口々に反対します。
「まあ、そう言うな。私は守れなかった戒律も多いダメ坊主だが、まだ女犯を犯したことはないし、その疑惑を持たれたこともない。60も過ぎて、今回の件で人の非難を受けるような運命だとすれば、それも前世からの因縁である」。
「そうは仰っても、僧都さまをよく思わない連中がかぎつけて、悪い噂を流してもしたら、それこそ仏法の名折れです」。弟子たちがこのように言うのは自然な反応ということなのでしょう。そして、この死にかけながらも生きている不思議な謎の女を、僧都が助けようとしていることのイレギュラーさが浮き彫りになっています。
僧都は「これで絶対にキメる!」と覚悟し、一番弟子の阿闍梨と共に一心に祈りを捧げました。すると、いくらやっても出てこなかった物の怪が出現したのです。
「わしは、お前らに退治されるような者ではない……生きている時は修行に励んだ法師だったが、わずかにこの世に恨みを残して死んだのだ……。
恨みを抱えて中有をさまよっていると、きれいな女がふたりいる屋敷にたどり着いた……うち一人は取り殺してやった……。そして、この人は自ら「死にたい、死にたい」と昼夜強く念じていたのを聞き取り、真っ暗な晩に一人でいたところを襲ってやったのよ……。」。
きれいなふたりの女というのは、大君と中の君のことでしょう。となると、大君の不自然な死には物の怪も絡んでいたということになります。死への絶望感が物の怪を呼び、物の怪がまたその気持ちを増幅させ、浮舟もその犠牲になりかけた、というわけです。
「だがこの人は観音の加護が強く、とり殺せなかった……。そして今、この僧都の法力にも負けた……。もう出ていこう……」。
「お前は何者だ!」と問うたものの、物の怪はそれ以上何もいいませんでした。そして本人はようやく、少し意識がはっきりとしてきます。目に入ってきたのは部屋の天井、そして自分を取り囲んでいる見知らぬ老人たち。腰の曲がった尼姿の人ばかりで、まるで見知らぬ国にきたようです。
(ここはどこ? この人達は誰? ……私、自分の名前も、住んでいたところも思い出せない……)。謎の女――浮舟は、記憶喪失になっていたのです。
おぼろげな記憶から紡ぎだす、私が死んだ「あの夜のこと」
彼女は必死に自分の記憶をたどります。今思い出せるのは「身を投げて死のう」と強く思いつめていたことだけ。そこから徐々に、徐々に、あの日のことが断片的に蘇ってきます。
(あの夜、私は川に身を投げようと思って外へ出たものの、あまりに激しい風と川音に怖気づき、どうしてよいやらわからなくなってしまった。
途方に暮れて縁側に座り込み、かといって部屋の中に戻る気もせず、「鬼でもなんでもいい!! 私を食い殺してちょうだい」と言ったら、どこからともなくとても美しい男が現れて「さあおいで! 私のところへ」と、抱き上げてくれた。でもそこから先がよく思い出せない……。
気がつくとその人は、私をどこかに置き去りにして消えてしまった。その男の人を、私は“宮さま”だと思った気がしたけれど、宮さま、って誰だった?……とにかく死にきれなかった悔しさで、激しく泣いたところからまた、記憶が途切れてしまう……)。
浮舟が少ししっかりしてきたのを、妹尼はじめ周りの老婆たちはとても喜んで、今までの経緯を語ります。それを聞いても(そんなに長いこと、私は意識を失って、この見知らぬ人たちにお世話され……おめおめと生き返ってしまったんだわ! 私は死にたかったのに!!)
そう、浮舟は死にたかったのです。でも結局は死ねなかった。どうしても生きていたくなかったのに、なんで助けてくれちゃったのよ! と、今度は逆に薬湯などを拒否します。これなら無抵抗な意識不明状態のほうが、口に流し込めてまだマシだったと、妹尼は困惑です。
「やっとお熱もさがって、気分も良くなっていらっしゃるようで嬉しかったのに。どうしてそんなに頼りなく、お元気が出ないのかしら」。妹尼は未だ気を抜かず、浮舟にぴったり付き添ってお世話します。
浮舟の心は未だに「死にたい、どうにかして死のう」とそればかりですが、体はそれとは裏腹に、日毎にどんどん快復していきます。まず起き上がれるようになり、食事も摂れるようになると、寝込んでいたときよりも顔がスッキリして、いよいよ美しくなっていきました。何と言っても体は正直ですね。
年老いた尼たちは「この若くきれいな方を死なせなくてよかった」と喜んでいるのですが、彼女は「どうか尼にしてください。出家できるのなら生きてみようかと思います」。
「何を仰るの。あなたのように若く可愛らしい方を尼姿になんて」。妹尼はこう言って、ただ頭のてっぺんの毛を少しだけ切り、五戒を授けます。これは源氏が紫の上に受けさせたのと同じものです。当時は、出家をするとその功徳によって、寿命が伸びることがあると考えられていました。
しかし紫の上同様、本当に出家したい浮舟は納得いきません。とはいえ、もともともじもじした性格のため、強いて頼み込むこともできず仕舞い。僧都はその様子を見届けて「もう大丈夫だろう。とにかく今はこのあたりで、様子を見て」と、再び山へ戻っていきました。
親切なのは嬉しいけど……詮索好きなおばさんにウンザリ
僧都の妹尼は、娘の生まれ変わりのような浮舟が元気になってくれて、嬉しくてたまりません。自ら彼女の髪を梳かして、あれやこれやと詮索をはじめます。「あなたは一体どこの方? お名前は? どうして宇治の山の中にいらしたの?」。
浮舟は少しずつ記憶を取り戻しつつありましたが、過去を知られるのも恥ずかしく「意識不明の状態が長かったせいか、どうしても思い出せません。本当に、自分がどこの誰なのか、まったく憶えていませんの。
ただ、なんとかして死にたいと思って外に出たこと、大きな木のもとから人が出てきて、私を連れていくような気がしたことはなんとなく憶えているのですが、それ以上のことは本当にわからないのです」。
しかし尼君は「あなたには私の気持ちがわかっていただけないの。こんなに一生懸命お世話しておりますのに、どうしてそんなに自分のことをお隠しになるの」。うーん、こういうおばさんっていつの時代もいるんですね~。人間、いいたくないことの1つや2つあってもいいでしょう!
「とにかく、私が生きていると誰にも知られたくないのです。私の存在を聞きつける人がいたら、とても悲しい……」。
浮舟はこう言って涙を流します。長患いの間も少しも乱れる所なく美しかった黒髪は、櫛を通されていよいよつややかに輝き、白髪頭の老婆たちの中に、天女が舞い降りたかに見えたとあります。
尼君はさすがに気の毒になって、それ以上のことは聞きませんでした。まるでかぐや姫のように、この美しい人が再びどこかへ消えてしまうのではないか、と、ふと不安になったのです。
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