『RED レッド』や『ダイバージェント』シリーズなどハリウッドで活躍するロベルト・シュベンケ監督が母国ドイツでメガホンをとり、第2次世界大戦末期に起きた実話をもとに描いたサスペンスドラマ『ちいさな独裁者』が現在公開中。
【ストーリー】
第二次世界大戦末期の1945年4月、敗色濃厚なドイツでは兵士の軍規違反が相次いでいた。命からがら部隊を脱走したヘロルトは、道ばたに打ち捨てられた車両の中で軍服を発見。それを身にまとって大尉に成りすました彼は、ヒトラー総統からの命令と称する架空の任務をでっち上げるなど言葉巧みな嘘をつき、道中出会った兵士たちを次々と服従させていく。かくして“ヘロルト親衛隊”のリーダーとなった若き脱走兵は、強大な権力の快楽に酔いしれるかのように傲慢な振る舞いをエスカレートさせるが……。
ロベルト・シュベンケ監督にインタビューを敢行。映画についての想いを聞いた。
●監督はこれまでハリウッドで活躍されて来ましたが、ドイツに戻って歴史モノを撮りました。どういう経緯で撮影が始まったのでしょうか?
きっかけはストーリーでね。ドイツに戻って、ドイツの製作で、ドイツで撮る内容であることは明白だったので、物語を先に見つけたよ。
●そのどこに惹かれたのでしょう?
我々が持ち合わせている本質というものが、反映されている物語であると感じた。つまり、人間は暴力や不正、不公平なことを他者に対して行うことができてしまい、それがどうしてなのか模索できるテーマもでもあった。混沌と文明の間には、いかに薄い膜しかないかということもテーマとして感じた。それを映画で掘り下げられると思った。
何から自分を守るのか認識できなければ守ることはできないわけで、そしてもうひとつ、国家社会主義の力学的な構造にとても興味があった。つまり、そういう構造の中では末端の人々が政策などを推し進めて行かなければいけない構造になっているにもかかわらず、ドイツには長らく神話があって、トップの人間だけが悪いというね。イデオロギーに突き動かされて動いていた上の人以外のほかの人間は、イノセントなのだという神話だね。それは僕は間違っていると思っていたので、末端の構造の人たちがどうだったか掘り下げてみたいと考えた。
それとともにすごく重要なことは、ギリシャ悲劇のようにバッドエンディングとわかっている物語では、実はないということ。ここで描く逆説が起こってしまった背景が、単に関わったすべての人が許してしまったから起きてしまった虐殺ということだ。いつでも誰かがストップすることは可能だったはずなのに、関わった人々が全員なんらかの理由で許した、あるいはそれを求めた結果なわけで、言い換えれば、こういうことを止める力は誰にでもあるはず。個人の責任を問うのではなく、ひとりひとりには責任があるということを描いている。一般市民の勇気を描いているわけだ。
●その神話があったドイツですが、彼らは、この映画をどう観ていたのでしょう?
すごくドイツでも好評を得たよ。たぶんこういうタイプの映画は、いままで作られてはいなかったから、やっと作られたということが喜びとともに受け入れられたと思う。ドイツの第二次世界大戦ものは、あまり質のいい映画はなく、遺産もの、コスチュームプレイ、時代ものみたいなものが多くてね。過去と現在の関係性まで見据えて作られてはいないと思う。
それともうひとつ、実話ものにしては娯楽性があったからね。もちろん、楽しませたいという気持ちで作っていたし、だからこそのユーモア、ペースも早いので、グッと入り込めて作っていけた。映画的体験が楽しめるもを作ったという自負があるし、みながそれをいいなと思ってくれたと思う。劇場を出たら、すぐ忘れてしまうような映画にはなっていないよ(笑)。つまらないお説教型の歴史ものにはなっていないと思うし、ドイツでは歴史ものでありながら……ということでほめられたと思う。
●これは当時の話ですが、いまでも起こっている現象ですよね。権力の肥大化と、それを制御できないシステムの脆弱性は、それこそ日本の企業にも残っていて、時に独裁者が。でも、おっしゃるように説教臭くないので、監督自身は、映画に登場する人間については、どう受け止めているのでしょうか?
まず、キャラクターを切り絵人形のようにはしたくなかった。今日の我々が持っているいい悪いの価値観はさておいて、彼らのマインドに入っていく方法でアプローチをした。人間は元来、自分が何かひどいことをしても、自分の中で正当化できてしまういきものだ。それはみなが持っている資質だから、朝起きて「今日は悪事を働くぞ!」と思っている人はいない。たまたまその日悪事を働いてしまい、正当化する力を持っている。
この映画には、わたしの道徳的なポジションを言語化しているシーンは、一個もない。ドイツの観客の中では、それが慣れていないから、どうしていいかわからなくなった人たちが一定数いたそうです。ドイツの観客は、この映画は、こういう見方をしてほしいとキャラクターがセリフとして言うことに慣れちゃっている。でも僕は、そういう映画作りは観客を見くびっている行為だと思う。観客はすごく聡明なわけで、僕がこういう映画です、と言わなくても理解してくれると僕は信じている。だからこそ、この映画には、アピールをや説教臭いところがないわけだ。
ただ、僕の観点は、映画のトーンを通じて感じてもらえると思う。いきざまもばかばかしければ、死にざまもばかばかしい。そういう彼らのことを笑いにしている僕のトーンで、採っている立場がわかるとは思う。言葉には一切していないけれどね。映画は残念ながら、説明してほしがる観客が増えてしまい、それに慣れているから悲しいことだと思う。自分で考えればいいのにと思ったりもするよ。
●もしかすると、ハリウッドでは撮れなかったタイプの作品かもしれませんね。
サスペンス・スリラー的な要素も、説教臭くなく感じてもらえる理由だと思う。主人公は生死を賭けた道のりを歩いているわけで、観客としては彼を応援せざるを得ない。ある意味ジャンルものでもあるからこそ、より説教臭い点が薄れているよ。彼を好ましく思うかどうかは別として、彼が切り抜けると、ちょっと「やった!」と思うはず(笑)。そういう作りになっているので、めずらしい作りかもしれないけれど、少なくとも先ほど言ったように観ていて、あの時代を体感できるような映画にしたかった。
外側から内側を見るような映画ではなく、内側から外側に語れるような映画だよ。ただ観客が観察して学びを得る対象ではなく、観客までもが内側から体感できる、そういう作品にした。最近は映画館に行っても、帰りの車で忘れてしまい、記憶に残らないことがある。それはかつてあった映画的な体験を、僕ができていないからだ。この作品は、みなさんに映画的な体験をしてほしくて作った。そして、この画映画で対話が始まればいいと思っている。
アメリカ映画の問題点は、みながハマりそうなワンサイズで繰り返し作っていることで、自分の一部を作品に投影して、自分の作品にすることができなくなっていることだよ。本来は映画と観客の対話であるべきなのに、映画が対話をさせてくれない作りであるならば、そもそも何も成立しない。まあ、僕はスタジオで映画を作っていたので、少しくらいここで批判的なことを言っても許されると思っているけれど(笑)。
(取材・文・写真:ときたたかし)
『ちいさな独裁者』
http://dokusaisha-movie.jp/
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