「どうしてもこれだけは」時間と労力を費やした極秘計画
源氏の息子・夕霧の恋愛沙汰が世間を騒がせた年も暮れ、明けて源氏51歳の春。紫の上はどことなく体調の悪い日々を送っていました。
息絶えたと思ったところから一命をとりとめて既に4年。具体的にどこが悪いというわけではないのですが、元気が出ず、時間とともに生気が失われていく感じです。
「私はもう来年の春を見ることはないだろう。何不自由ない人生だった。それに、気がかりな子どももいない……。これ以上、無理に長生きしたいとは思わない。でも、私が死んだら、殿(源氏)がどんなに悲しまれるだろう。それを思うと……」。
自分がもう長くないと悟った紫の上には、この世への未練はほとんどありません。特に、手塩にかけて育てた明石の女御(現在は中宮)はとても可愛いけれど、私が死んでも実母が世話をしてくれる。若いときは子どもに恵まれなくて辛かった彼女ですが、今となってはそれはそれでよかった……という気持ちです。
心の整理がついている紫の上の気がかりは子供よりもむしろ夫・源氏のことです。もう源氏に対して濃密な愛情は失せてしまいましたが、長年連れ添った夫婦として、自分が死んだあと夫がどれほど嘆くだろうと思うといたたまれません。それほど、源氏は紫の上が自分より先に逝ってしまうことを恐れ続けていました。あとに残る旦那さんが心配なケース、今でもありそうですね。
「私だって出家は長年の悲願だ。出家するなら一緒にしよう。でもいくら来世で逢おうと言ったところで、現世で修行する間は別々の山に移り、顔も見られずに過ごすのだ。私はそんなことは耐えられない」というのが源氏の弁。どうしてもどうしても、紫の上の出家を許しません。
人生の終わりに、1日でも2日でも仏様の弟子として修行する……それが当時の貴族の理想的な“終活”スタイルでした。でも紫の上も源氏の心を無視してまで、無理やり出家しようとは思いません。
そのかわり、自分の私的な発願で始めた法華経の写経1000部が完成したので、それを供養するための法会を営みたいと準備をします。──これは、相当な人手と時間を要した紫の上の極秘プロジェクトでした。
「ほぼ完璧」密かに温め続けた祈りの集大成
貴族たちにとって法会は重要な宗教行事であるとともに、音楽や演舞なども含めたイベントごとでした。会場の飾り付けや演出など、主催者のセンスが問われる場でもあります。
今まで様々な登場人物たちが法会を営んできましたが、今回の法会が他と違うのは、紫の上が「どうしてもやっておきたい」と、長年密かに準備していたことでした。印刷技術のない時代、手書きの写経を1000部というのは大変な時間と労力のいることです。
彼女の心を知らなかった源氏は、企画の最終チェックにだけ目を通します。その内容はほぼ完璧。仏道の決まり事もしっかり抑えてあり、源氏が手を入れるところはどこにもない。飾り付けの手伝いをちょっとすれば良さそうな出来栄えです。
「随分前から計画していたことだったのだろう。それにしても、ここまで仏事にも精通しているとは……」。源氏は彼女の優秀さに改めて感心します。
紫の上がいつこの計画を思い立ったのかは定かではありませんが、彼女が強く出家を願うようになったのは、女三の宮の降嫁以降です。
源氏との関係が冷え込み、彼と心の距離ができた頃から、紫の上は密かに勉強し計画を立て、実行に移そうと考えていたのでしょう。この法会は、絶望の淵で彼女を支えた祈りの集大成とも言えるものでした。
「今はすべてが懐かしい」かつてのライバルに宛てた最期の手紙
桜の花盛り、まさに極楽浄土のような美しい空の下、ついに法会が行われました。春を愛する紫の上主催のイベントにぴったりな日です。会場は以前から紫の上が「私の家」としている二条院。皇族や政府高官らはもちろん、花散里や明石の上も二条院に招かれました。
紫の上が久々に大きな催しをするというので、音楽や舞楽のことは夕霧が担当。永遠のあこがれの人、紫の上の役に立ちたいと率先して手を上げました。その他、帝や皇太子らをはじめとした高貴な方々をはじめ、多くの人が競って見事な供物を差し出します。既に皇太子の祖母となっている紫の上の人徳が偲ばれる協賛者の多さです。
素晴らしい天気に恵まれた中で聞く鳥のさえずり、楽器の音色、舞人たちの鮮やかな姿、ありがたい読経の声……。「これが最後」と思う紫の上には、すべてが身にしむようです。感傷的になった彼女は、良い機会だと思い、孫の三の宮をお使いにして明石の上に手紙を送りました。
「惜しくもないこの身ですが、これが最後と思うとやはり悲しい思いです」。紫の上は死を目前にした真率な想いを、かつてのライバルであり、今は良き友人になった明石の上に伝えます。
が、それに素直に答えるのはさすがにちょっと……と思った明石の上は「今日のこの日を始まりに、あなた様のご寿命が千年も長く続かれますように」。もう命が終わるなんて仰らないで下さいね、というフォローを返します。
何を見ても聞いても「今日が最後」と思う紫の上。そのせいか、普段なら特に気にも止まらない楽人や舞人の顔すらもしみじみと目が止まります。宴会モードに突入して、楽しく酔っ払っている人たちすらも、彼女には切ない感慨を呼び起こすのでした。
イベントは一晩中続き、無理をして疲れが出た紫の上は横になります。退出の挨拶が続く中、花散里には一言メッセージがしたくて「これが最後だと思いますが、この世で育んだあなたとの友情は忘れません」。
気のいい花散里と紫の上は、二人とも裁縫上手というのもあって、一緒に染色をしたり、イベント時には何かと協力したりした仲でした。それも、花散里の地味な思慮深さが、紫の上の嫉妬を買わなかったことが大きかったと思いますが。
優しい花散里は「こちらこそ残り少ない人生ですが、あなたとの特別な友情は永遠です」。こうして彼女の長年の悲願だった法会はさりげない別れの挨拶とともに幕を閉じ、季節は夏へと移ります。
体に堪える夏の暑さ……ついに娘と孫が看病に
夏の本格的な暑さは紫の上の体力を確実に奪い取り、意識を失うことも増えてきました。ひどく苦しがることはありませんが、死んだように見える瞬間も多く、そのたびに世話をする女房たちも目の前が真っ暗になる思いです。
容態がかんばしくないという話が宮中にも届き、心配した明石の中宮(ちい姫)は里帰り。紫の上は起き上がって出迎え、愛娘との久々の再会を喜びます。
二人の話が弾んでいるのを見て、源氏は「なんだか巣を追い出された鳥のようだ。私はどこで寝ようかね」と負け惜しみを言いながら、紫の上が久しぶりに元気そうなのが心底嬉しいと思うのでした。
もう邸内を自由に歩き回れない紫の上のため、中宮は紫の上の病室近くに滞在します。既に中宮という最高位に就いているため、本来なら別の棟に移って過ごし、そこでもお付きの人やら格式やらがいろいろ大変なのですが、今は愛する母のため、中宮自ら側につきそい、時折は明石の上も混じって、あれこれと話しをするのでした。
「僕はおばあちゃんが一番好き!」幼い孫との切ない会話
紫の上は会話の中でさり気なく「私のところにも身寄りのない女房がいます、どうかお気にかけてやって下さい」とか「可愛い孫宮たちが大きくなるのが見られないのが残念」などと繰り返し言います。
はっきりと遺言するわけではないのですが、そういう言葉を聞くといよいよ本当に死んでしまうのかと悲しく、中宮は泣いてしまいます。以前は大輪の花のように豊麗だった紫の上ですが、病のためにその艶やかさは消え、変わって透き通るようなか細さ、美しさのある横顔はまた格別に美しいのでした。美人は病んでも美しいですね……。
中宮が用事で席を外した時、孫宮の中でも格別やんちゃな三の宮がおばあちゃんの近くへやってきました。紫の上のところで養育されており、春の法会で手紙の使いをしたのもこの宮です。
紫の上は手元でかわいがった孫を呼んで「宮は、おばあちゃんがいなくなったら寂しいかしら。思い出してくれる?」と訊くと、
「僕は、おばあちゃんが一番好き!宮中にいらっしゃるお父様やお母様よりおばあちゃんが好きだもん!おばあちゃんがいなくなったら、嫌だ。すごく会いたくなるよ」。
なんだかおばあちゃんがとても悲しいことを言うので、宮は涙の目をこすってごまかしながら答えます。そんな孫がいじらしくてたまらず、紫の上は微笑みながらも涙がこぼれます。
「宮が大きくなったら、この二条院に住んで下さいね。お庭の紅梅と桜は、花の時期にはぜひ見てあげてね。そして、時々は仏様にもお供えしてね……」。
宮は真剣に祖母の顔を見ながらうなずきます。でも涙が落ちそうになって、こらえきれずに行ってしまいました。子供の可愛いシーンもたくさんある作品ですが、特にこの紫の上と三の宮の会話の切なさは指折りです。子どもながらに涙を見せたくない彼の心が愛おしいですね……。
さりげない別れや遺言を親しい人たちに伝え、終活に余念のない紫の上。ほとんど悔いはないといいつつも、可愛い孫たちの成長した姿、とりわけ手元で育てたこの三の宮と女一の宮の将来が見届けられないのが残念でした。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/