「ハチさ、何を撮りたいかてのはハッキリしてるのに、それを効果的に見せるアングルが使えなかった時の切り替えが出来なくて枚数が増えてんねん。真正面から被写体を撮るのがベストショット、でも映り込みがあるから真正面からは撮れない、じゃあ映り込みのない右からのアングルにしよう、だったら真正面からのベストショットは忘れないと。真正面から捉えるベストショットのように撮ろうとするからアングルが決まらない、効果的な角度が狙えない、どのくらい近づいたらベストショットか、もしくは引いたほうがベストか、もしかしたら左からのアングルのほうがベストか、て探れてないのよ真正面のベストショットに囚われてて。だから真正面がベストショットなのにて思いを捨てないと。真正面からは撮られへんねんから」
『よく、おわかりで。』
「写真がそう言ってるで。この位置からならこのアングルて意識して撮らないと」
『それが難しい』
「そやな。今は枚数をたくさん撮って自分の目で見えてくるまで見比べることやな」
物事には順序というものがある。
その順序を踏まえていれば、時には途中を飛ばせるということがある。
「嗚呼あの時のあの事はこういう意味だったのか」と遡って理解できるなら。
いつまでも見えてこない部分は飛ばして先に進み、進んだ先で見えなかった部分が見えてくる場合に、途中が飛ばせる。
しかし、それをするには順序を踏まえていてなおかつ大胆にやれる人でなくてはならない。
丁寧で慎重派の人には途中すっ飛ばし法は不向きなんである。
ハチの大胆さは思い切るまでが長い。大胆さは瞬発力である。打った時に響くでは遅く打ってもいないのに勝手に響くのが瞬発力のある大胆さなのだ。一晩考えて大胆さを発揮するハチは、脳で大胆さを作り上げている。瞬発力だけの大胆さは脳を介さない、反射なのだ。
「時間、かかりそうやな」
『そうだね』
ハチは脳を介す、私は反射的にそう思う。
【兄弟寺はスッキリ】
兄弟寺がシンプルでびっくりするくらいスッキリしているから、どこを撮っていいか何を撮っていいか、ということに一番迷いが生じたのだろうハチは、そのスッキリさで研ぎ澄まされた節がある。
「この上の棚、開けた?」
『鍵かかってたよ』
「強くひっぱっても開かなかった?」
『鍵がかかってたんだってば、無理だよ開けるの』
わかってきたのか?何をすべきかを。
手前の柱が邪魔にはならんのかな、と思える小便器。
手すりの位置がどう見ても高いということはこれは手すりではなくタオル掛けか、と思える個室。
おさえるトコロを3枚以内でキめている。
この時点ではまだ3枚以内とのお達しは出していないのに。
外観はアホほど撮ったけど、内部は珠玉撮りである。
シンプルスッキリの効能かこれは。
謎スペースにトイレットペーパーが乗っていないということは、上の棚にあるのだろう。
鍵穴もあることだし。
厳重な管理の下、大事に保管されているのか。
だったら見てみたい。
こんなに開けたくなる棚なんて、おばぁちゃんちの水屋以来である。
シンプルでオーソドックスだと、落ち着くというよりは、無なのだ。
【地に足がついた便器】
無から何かを作り出すというのはとても苦労する。
産みの苦しみというヤツである。
しかしその苦しみの中から見出すものは大きい。
やれば出来るということはやらないと出来ないのだ。
なぜやらないのだろう、やれば出来るのに。
それはやれない気がするからだ。
やれない気がしてやらない。
やれないことなどない、やれないと思う自分がいるだけ。
サッパリとした脳で考えると、反射と同じ大胆さが出せるものなのかもしれない。
シンプルなトイレを大胆に見てはいかがか。
脳を介さず反射と直観で大胆に会社のトイレに入ってみよう、きっとサッパリする。
そのサッパリ感を忘れないウチに、公衆便所に行ってみよう。
今までの公衆便所とは違って見えたなら、アナタもこちら側に一歩踏み込んだと思ってしっかりと腹を括ろう。
スパルタ撮影指導を受けながらハチは次の便所旅へと移動する。
ココで学んだ技術を次に活かせよ、ハチ。
しかし私はどこぞの編集長と違って鬼ではないから、年末年始はしっかりと休ませる所存である。
ご馳走を食べてゆっくりとカラダを休めるがよいハチ。
年末年始は私自身が便所撮影に忙しくてそれどころではないから。
初詣の人々で賑わう中での雪隠撮影はいかに手際良くアングルを決めるかにかかっている、そのことも今後の便所カメラマンの心得として持っておけ。
※全画像:筆者および助手ハチ撮影