父は、滋賀大学を受けて落ちたと亡くなる直前に話してくれた。息子がこんな仕事をしているから、話しづらかったのだろう。戦争の混乱の中で、結局大学に行けなかったらしい。
その無念さが、ウザいほど私の仕事に口を出してきたのだと思う。自分が父親になって、分かったことが多い。「ありがとう」と言いたいが、遅すぎた。
初孫が生まれた。父に見せてやりたかった。
京大を受けてから10年。宇宙時間では、うたかただろうが、人間には長い。A子ちゃんは、立派な社会人になって働いている。もう結婚しただろうか。
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番外編(1)
「崩壊前夜までのこと(数学)」
最初に
「ボクは数学が苦手なのだろうか?」
と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きく、男子クラスがあり私は男子クラスに在籍していた。
当時、男子は理系に進むのが大多数だった。その中にあって、テストの度に数学が壊滅的な点数になっていた。全国の模試なら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどうしても周囲の子と点数を比較してしまう。平均点と比べてしまう。
点数だけでもない。三角関数、対数、微積分と進むにつれて
「もうボクの頭には入りきれない」
と友人にぼやいていたのを思い出す。物理で13点を取り、
「こんなのありえない!」
とショックを受けて、クシャクシャにして捨ててしまった。私は数学の公式を使う場合に、
「証明できないと、使う気になれない」
というタイプだった。今思うと、それでは前に進めない。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり気持ちが混乱し始めた。そして、1974年の大学受験の5日前を迎えた。
2階の勉強部屋で数学の勉強をしていたら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ちてしまった。そして、
「お父さん、ボク変だ」
と叫んだ。二階に駆け上がって来た父は、ひっくり返った亀のように手足をバタバタしている私を見て
「お前、何をしてんだ」
と言った。そして、近くの総合病院に担ぎ込まれた。
病院の看護婦さんは、私の手足を押さえつけながら
「アレ?高木くん、どうしたの?」
と言った。北勢中学校の体操部の先輩だった。
診断は、神経衰弱。いわゆるノイローゼとのことだった。私は頭が狂うことを心配したが、医者が言うには
「そういう人もいるが、身体に症状が出る人もいる」
とのことだった
いなべ総合病院
「崩壊前夜までのこと(英語)」
最初に
「何かおかしいぞ」
と気づいたのは、1982年にアメリカのユタ州ローガン中学校で社会の授業をしている時。同席していたネイティブの教師が、しばしば私の授業を中断して生徒に向かって説明し始めた。
「ミスタータカギが今使った単語の意味はね、---」
と解説を始めた。それで、一番仲のよかった理科教師のアランに
「なんで私の授業を中断するのかな?」
と相談したら
「お前の英語は綺麗だけど、ビッグワードを使いすぎなんだ」
とアドバイスをくれた。それで、注意して職員室の会話などを聞いていると、確かに中学レベルの英語を使っている。自分が受験勉強で習った難解な単語など全く出てこない。
not more than と no more than の違いなど、使わないのだからどうでもよかった。私の塾生たちは、高校で与えら得た「システム英単語」を使って単語をいっぱい覚えているが、多分ムダになる。
アメリカから帰国した私は公的な資格を取ろうと思って、とりあえず英検1級の過去問を書店で入手した。そして、知らない単語や表現を見つけてウンザリした。
もはや、高校生の時のように
「頑張って勉強しないと」
と自分を責める気になれなかった。私はネイティブの助けを借りて問題を解き始めたが
「これは何だ?なんで、日本人のお前がこんなものを」
と言う。それで、
「どういう意味?」
と尋ねると
「こりゃ、シェークスピアの時代の英語だよ」
と笑っていた。
しかし、アメリカから名古屋にある7つの予備校、塾、専門学校に履歴書を送付しても全て無視されたので、私は日本の英語業界で認知されている資格を取らざるをえなかった。