共感度120% 負け犬の自覚がある人にはロシア文学がおすすめ
ドストエフスキーに代表される、ロシアの古典文学。
100年も前に書かれたものですが、人の本質的な感情は時代を超えて共感できるものです。
なかでも落伍者や負け犬という、いわゆる『ダメな人』の悩みや苦しみの表現について、ロシア文学には非常に秀逸。数多くの名作が存在します。
今回はそのなかでもおすすめな『ワーニャ伯父さん』をご紹介します。
人生を描いた戯曲『ワーニャ伯父さん』
『ワーニャ伯父さん』は、アントン・チェーホフの戯曲作品です。
作家・阿刀田高さんは『ワーニャ伯父さん』と、やはり戯曲でチェーホフの代表作である『かもめ』という作品とを対比したいくつかの評論に注目し、その一つを著書で紹介しています。
”<かもめ>には演劇を感じますが、<ワーニャ伯父さん>には人生そのものを感じます”(チェーホフの学友の手紙より)
(『チェーホフを楽しむために』阿刀田高)
では、『ワーニャ伯父さん』で描かれる『人生』とは、いったいどんなものなのでしょうか。
『ワーニャ伯父さん』ってどんな作品?
あらすじ
タイトルにもなっているワーニャと姪のソーニャ、母親の暮らす田舎が舞台。都会に住むワーニャの義理の弟とその後妻が訪れ、滞在しているときのお話です。
『田舎暮らし』については辛く苦しく、みじめなものと説明されており、ワーニャ一家だけでなくその知人の医師も含め、みんな自分が不幸だと認識している様子です。
そのため都会生活に慣れている2人の来訪者は、冒頭から「怠け者」「わがまま」といった、鼻持ちならないイメージで描かれています。
加えて、ワーニャにはこの来訪者のうちの一人、義理の弟に特別な憎しみがありました。
ワーニャ伯父さんは何を嘆いているの?
作中に登場するワーニャは、40代後半で、独身。母親と姪と、朝から晩まで働きづめの生活をしてきました。
というのもワーニャは学者である義理の弟に心酔していて、彼に都会で華々しく活躍してもらうために、長年、必死で金をつくって仕送りし続けていたのです。
ところが最近になって、義理の弟は失脚し、なしくずしに化けの皮がはがれます。そうなって初めて、ワーニャは彼が学者としても人間としても、何の価値もないやつだったと気がつくのです。
素晴らしい人だと信じていたからこそ、自分のことを差し置いてでも、さんざん貢いできたのに……
”ワーニャは田舎暮らしをしているけれど、そこそこのインテリだ。(中略)もしかしたら偉い学者にもなれただろう(中略)それを譲って教授たちにつくしたのに、このありさま。
――――俺の人生を返してくれ――――
というのがワーニャの一貫した心境である。”
(『チェーホフを楽しむために』阿刀田高)
大逆転は、なし
『ワーニャ伯父さん』に「何かが変わる」結末はありません。
話の中でワーニャがとうとうキレて、義理の弟に発砲するシーンはありますが、弾は外れてけが人なし、警察沙汰にもならず、ただ弟夫婦が都会へ戻るのが早まっただけです。仕送りさえこれまで通りに続けていくことになっています。
ワーニャは自殺を考えますが、姪に説得され、彼女といっしょに死ぬまでいまの苦しい生活を続けていくであろうと思わせる流れで幕となります。
タイトルが『伯父さん』の理由
結局、何が言いたいの?
ワーニャの苦しい人生はそのまま続いていきます・・・(完)なら、チェーホフがこの作品で書きたかったのはなんなのか。
ワーニャの不幸は、正論でつきつめると、やはり自業自得という結論になるでしょう。
阿刀田高さんはワーニャを、人生で賭けに出る勇気がなくそれを他人任せにしてしまった、善良だけど臆病すぎた人と評しています。
”情状酌量の余地はあるけれど、こういう生き方を選んでいちゃあ幸福になりませんね。”
(『チェーホフを楽しむために』阿刀田高)
例えば、両親の価値観を鵜呑みに信じ切って、その通りに生きていったところ、大人になって不幸な結果になってしまい、「親の言うことなんて信じなきゃよかった」と、両親に強い恨みを抱くようなケースと同様かもしれません。
あらすじだけで見ると「人生は自分で切り開かないとこんなふうになっちゃうよ」というのがチェーホフの言いたかったことにも思えます。
チェーホフが言いたかったことは、ソーニャが言っていること
しかしラストの、もう死にたいと駄々をこねるワーニャをソーニャがなだめるシーンを考えると、おそらくそうではないでしょう。
むしろこのワンシーンこそこの作品のすべてと言えるかもしれません。
”わたしだって、あなたに負けないくらい不仕合せかもしれないわ。けれども私は、やけになったりはしません。じっとこらえて、しぜんに一生の終わりがくるまで、がまんしとおすつもりですわ。(中略)”
”あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる(中略)その時こそ(中略)ほっと息がつけるんだわ。”
”お気の毒なワーニャ伯父さん(中略)あなたは一生涯、嬉しいことも楽しいことも、ついぞ知らずにいらしたのねえ。でも、もう少しよ、ワーニャ伯父さん、もう暫くの辛抱よ。(中略)ほっと息がつけるんだわ。”
(『かもめ・ワーニャ伯父さん』チェーホフ)
こうして最後まで読み終えると、メインの登場人物ではあるけれど主人公というわけではないのに、なぜタイトルにソーニャ目線で『伯父さん』とついているのか、わかるようです。
ソーニャの『伯父さん』へのこの言葉が、作品の主題だったのではないでしょうか。
負け犬に優しすぎるロシア文学
もしワーニャのような人がいたとしたら、どういう言葉をかけるのが正解でしょうか。
「確率的には人生をやり直せる可能性が残っているはずだから、今からがんばれ」というのもあるでしょう。
ソーニャの言葉は端的に言いかえれば「あきらめましょう。運命だから」になるため、
『努力』の可能性を否定する考え方ではないのかと疑問に感じる人もいるかもしれません。
しかし『改善する努力』と『あきらめる努力』のどちらがいい結果になるのか、現実問題としてなら一概には言えないはずです。
実は冒頭にも書いたように、ロシア文学には『ダメな人』の苦しみをそのままに描いた傑作がいくつもあります。
負け犬だなあという自覚のある人、ぜひちょっと読んでみてください。
「自分のために書いてくれたみたい」という一冊が見つかるかもしれません。
●画像 ウィキペディア、写真AC
●ブログ http://web-note.blog.jp/archives/2705711.html