エッセイ型the twenties論(2017.1.8 渋谷Milky Way)

  by タツキヨコヌマ  Tags :  

最も参考にならない部類のライブレポートを書いた。
自分の目で見るのがいちばんなのだ、と思い知って欲しいからである。

何度も言うけれど、人の言葉に流されたり、人の言葉を鵜呑みにし過ぎるのはいけない。
とりわけ私のような女の言葉を信じて、なんのプライドもなく好きになってはいけない。

だけど本物は、本当にいいものは、筆者の私がどれだけひねくれ者であっても、意地悪い前置きをしようと、輝くと信じている。

私は誰のことも好きになれない。
渋谷のことはもっと好きになれない。

惨めな幼少期、青春時代を過ごしてきたからか。
はたまた今も惨めな大人だからだろうか。

ハチ公口までの長く狭い線路脇をちんたら歩くだけではなく、カップルが道を塞ぎながら並んで歩くのも鼻持ちならぬ。
とりあえずあのスクランブル交差点も何もかもが鬱陶しい、腹立たしい。
渋谷で唯一魅力的なのは屋内の喫煙所がある所だけかもしれない。

それを全部全部我慢してでも果たしたい目的ってのがtwentiesのライブだから驚く。

東京の天気は私の気分かというぐらい滅茶苦茶な気持ちで向かったにも関わらず、あっという間に最高の気分になれてしまう。

スターリンのロマンチストをtwentiesがやっていた、たったそれだけで私は新しい喜びを得られた。

好きなものそれひとつ。
それひとつあるから私は生きている。多分。

明日死ぬかもしれないけど、別にどっちでもいいやと思える悔いなき今日が過ごせる。
明日に希望はないけど今日得た納得と充実が私を眠らせて、私を明日に連れていく。

タカイさんに教えて貰った。
「何を書けばいいんだろうか」
「twenties最高twenties最高ってひたすら!」

これが答えじゃないのかな、と私は酔っ払っていたけど思った。
卑屈な感受性だけど変に敏感過ぎる私の感受性はそう受け取った。

twenties最高、と私が書いたところで糞の役にも立ちません。
だけどそんなことをしろだなんて、誰も言っていない、と私は思った。
それは気持ちの上での事であって、私はその「twenties最高」を自分なりの活字で表現すれば良いのだ。

熱意なんか嫌いだ。根性も嫌いだ。
だけど私にはその熱意と根性と、自分でもわからないぐらい深い愛しかない。
有名性も技術も、経験も、全然ない。

今私は、東京でいちばんかっこ悪いという自惚れだけがある。
だからむしろ私はある意味アナーキーな視点で見るとかっこいいはずだ。
吐き気がするほどロマンチックなのは、こんな時に訪れる時間と自分である。

自分の心は自分にしか救えない。
何度も言っているけど、これだけは私の思想の中でも数少ない正しい部分だと思っている。
自分にしか救えないのに、残念ながら自分がどうもがこうが足掻こうが救えないものがある。
だから生きるしかなくて、時間もたっぷり押し付けられて、苦しまなきゃならない。

追憶ダンスのイントロが流れる。
私の頭の中にも私の人生のまだ短くてしょうもない走馬灯が流れる。

死ぬ前ってこんな感じなんやろうか。

あまりにも気持ちがいいイントロは私にそんな考えを起こさせる。
ビリビリ来るやら、切ないやら、コンプレックスを抉られるやらで、私の感情は1回本物の滅茶苦茶になってしまう。
荒療治のような乱暴さで私の心を掻き乱したあと、間髪入れずに癒すあの音は一体なんなのか。

一瞬分からなくなるけど、眩しい眩しいステージの上に立つのはtwenties。
両サイドのスピーカーからは彼らが演奏する音がフロアにダバダバたれ流されている。
間違いなくtwentiesの音だから私は直視出来ずにへこたれそうになる。

苦しいでしょ?と聞かれても、私は絶対に苦しいから助けてくれだなんて言わない奴だけど、twentiesが苦しいでしょ?これどう?切ないでしょ?と曲の奥から投げかける時に私は素直に頷いてしまう。

でもさ、やっぱなんだかんだ楽しくない?とその後すぐ聞かれるているような気がして、私はやっぱり素直に頷く。
それの繰り返しで、なんだか一曲が私の人生みたいに思えてくる。
そんなはずはないんだけれど、そういうドラマチックな気持ちにさせてくれるバンドはそうそういない。

「お前は心がない。信じられない」
と言われて素直に泣けばいいのに、怒ればいいのに、そんな時に限って私はやけに冷静で心が不気味に凪いでいてバンバン嘘がつける。

心から好かれたこともないのに、私が誰かを自発的に心から好きになることなんて有り得ないよ、と思いながらも
「それなら仕方が無いけど、本心だよ。」
などという無駄口を平気で叩く。

お願いだから全員死んでよって心の中で思いながらも、あけましておめでとう、皆様に幸多からんことを!なんていう博愛の言葉までヘラヘラしながら言える。

どうしてそんなにみんな簡単に人を信じる。
どうしてそんなにみんな簡単に感情的になれる。
どうしてそんなにみんな簡単に正直者であれる。
どうしてそんなにみんな人を怖がらぬ。

これが命題のごとく頭と心に染み付いている私からしたら世の中全部が陳腐で、何もかもが許せない。

その逃れられぬ心の原点が私を一分一秒ごとに嫌な奴にして、駄目にしていく。
歯止めが効かぬトラウマや原罪に似た心の黒は大きくもなれないのに薄くも小さくもならずに私を支配したり操ったりしている。
悪趣味な不幸は私の心の原点である事だけが確定の事実だから私にとっては明日の行方や生き死にすらも疑いの対象になる。

twentiesのライブは、楽曲は、こんな私を少しだけどうにかしてくれそうな気がする。
どうにかしてくれるわけがない。
どうにかしてもらうわけにもいかない。
だけど私はそんな一縷の期待を抱いている。

その瑣末な期待をこの身で感じたいがためにtwentiesを追いかけ続けている。
もしかして、ひょっとしたら、案外と、私はいつか、だなんて思わせてもらえるからtwentiesとtwentiesの楽曲を愛しているのだと思った。

何も要らないから、私は私であり続けたい。
見たこともない私が私はいちばん欲しい。
いいものが書きたい。
私は永遠に感情的にはなれないはずだから、せめて私の書くもので誰かを感情的にさせてみたい。
嫌われるのは死ぬほど怖いから、せめて私の書くものぐらいは好きだと言われてみたい。

いいものが書きたい。
寺山修司や江戸川乱歩が私に教えてくれたようなナンセンスな刺激を私だって誰かに教えてやりたい。
私が死んでも、どっかの誰かが私の活字をカバンや部屋の本棚に忍ばせていてくれればそれでいい。
時々開いて、私もいつか、だなんて馬鹿な考えを起こして苦しみながらなりたい自分を探し続ける人生を歩んでもらいたい。

いい人にはなれないから、いいものが書きたい。
人気者にもなれないから、いいものが書きたい。
優しい人にはなれないから、いいものが書きたい。

こんなに願っても思い煩っても、書けない時は書けなくて余計な事ばっかりしている時期が必ずやって来る。
現にここ1、2ヵ月はまるで書けない。
書いても本当にくだらないものしか書けず、誰か私を殺してくださいとすら思ってしまう。
書けば書くほど自分の不甲斐なさ、取るに足らなさが差し迫ってきて書く事そのものが拷問のように思われてならない。

それなのに私はもう辞めよう、もう諦めようだなんて事は思えない。
寸分の狂いもなく私は文筆というものにしがみついていたい。

そういう思いを蘇らせてくれるから私はどこまでもtwentiesに期待をしてしまう。
期待なんて非常識な事をさせてくれるからtwentiesを見つめ続けるのだ。

初めてありのまま、書いてみた。
人からの評価が怖いから私の奥の埃のかぶった所は隠したかったけど、ついうっかり書いてしまった。
これがまさに私の作風であり、スタイルなのかもしれない。

楽しい、感動した、みたいな事は当たり前で私が書いたところで誰も得しない。
普通に考えて、好きでライブに行って楽しくないはずがないし感動しないはずもない。
私がそれをもう1度活字にしたところで無意味である。
だから私は私の奥地に分け行って、活字にした。

これが今夜の私なりのtwenties最高、なのである。

また次見る時はどんなtwenties最高、が書けるのか。
私にもまだ、わからない。

タツキヨコヌマ

タツキヨコヌマ 1991.10.12生まれ 山口県出身。 ライター。 寺山修司、江戸川乱歩、ボリス・ヴィアンフリーク。 主にインディーズバンドの記事を執筆。

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