先月25日に、さいたまスーパーアリーナで卒業を発表した、AKB48メンバー前田敦子。
私は、彼女を取り巻く、その環境について関心を持った。それは、芸能界という舞台であり、女性アイドルグループというコミュニティについてである。
つまりは、何故、彼女は卒業し、卒業したことによって何が起こるのか。
それを探究するために筆を執った次第である。
前田敦子の卒業について、理解を試みた二人(島田氏と凛氏である)の文章から、ヒントを得て、私は、彼女の卒業について論考を試みたい。
島田氏によると卒業は、通過儀礼である。人気に永続性を持たないアイドルグループの通過儀礼だというのだ。
しかし、その説明に対しては凛氏(2)によって疑問が呈されている。
私は、女性アイドルグループにおける卒業を一種の通過儀礼とする考え方に疑義を持たない。
凛氏は、島田氏の説明に対して、それが男性アイドルグループに適用され得ないことに対して、その分析を疑問視している。
ここで、私は、女性アイドルグループの特殊性について考えてみたい。
凛氏は通過儀礼に対して以下のように記述している。
「実際、女性の様に成人になった証(初潮)として目に見えるものがない男性の方が通過儀礼として試練を求められることとなります(若人組の一員として特定の場所で集団生活をするなど)」
これを男性アイドルと女性アイドルに当てはめた場合、次のように理解できないか。
女性アイドルにおいては、現実の女性の通過儀礼のように、目に見えない通過儀礼(一般に短いとされる女性アイドルとしての賞味期限)が課され、それについての記念としての‘卒業’が尊ばれ、男性アイドルにおいては目に見える通過儀礼(女性アイドルより長いとされる男性アイドルとしての賞味期限を全うするために、テレビ画面の中でより多くの期間活動する)が求められているのではないか。
それが意識される場合は多くないが、テレビ画面の中にいること自体が民族学的なハレに当たるはずであり、男性アイドルにおいては、そこに長くいることそのものが通過儀礼であり、そこでの成長が求められているといえるのだ。長く安定的に輝くこと(安心感)が求められているのだ、
女性アイドルにおいては、その短い賞味期限の中で、いかに彼女らが輝けるか、つまりは、短く強く輝くこと(言い換えるなら、ある種ファンを不安にさせる)ことが求められている。
女性は頼りがいのある男性像を求めがちだが、男性は頼られたいと願い、不安定な女性像を求めがちだ。
その不安定さを具現化した儀式こそが、女性アイドルの‘卒業’にほかならない。
男性アイドルは安心感を供給し、未来永劫の安定・安心を‘魅せる’ことでこそ、ファンからの支持を得て、商業的な成功を収めることができるだろう。
女性アイドルは不安定感を供給し、今しかないという焦燥感を‘魅せる’ことでこそ、ファンからの支持を得て、商業的な成功を収めることができるだろう。
そこには、理想の異性像における男女の有意な差が見て取れる。
現実世界では、男女平等が謳われ、実際にその差は縮まってきている。
しかし、急速にパラダイムシフトする社会についていけない、一種の現実社会からの‘はぐれ者たち’がアイドルの世界に没入しているという実感は拭いえない。
そのような、現実から逃れたいものたちを欲求を満たすためにあると、アイドルの世界を仮定するなら、アイドルのあり方における男女差は、容易に理解されるのではなかろうか。
急速な社会のパラダイムシフトから‘はぐれた者’たちは、前時代の社会における一般的なモデルであった‘封建主義’に想いを馳せる。(もちろん、強権的な家父長制であったそのあり方に彼らが順応できるかは別の話だ)
つまり、男性は強くて、女性は弱いというジェンダーへの認識だ(これについては、男性アイドルよりも女性アイドルにおいて、そのイメージの継承が顕著だ。より男性の方が保守的で、社会のパラダイムシフトに順応しづらいのだろう)
だからこそ、AKB48は世間の端々で言われるように、歌もダンスも演技も‘さほど’うまくないのだ。
そんな彼女らを、「守って」あげたいと思わせることによってこそ、このビジネスは成り立っている。
ステレオタイプな弱い女の子像を、AKB48全体においては、パッケージングしている。
また、そのグループのダイバーシティの確保のために、様々なメンバーが存在する。
何かに秀でていたり、勝ち気で弱いところがないように見えたり。
そんな彼女らを、メディアにおいて、多く露出させることでこそ、個々のファンには、彼女らに内包される弱さを(それは、プランナーのよきしない形のものである場合もある)見つける。(それらは一種の妄想の中にあるのかもしれない)
急激な社会のパラダイムシフトには、それに伴う反発がつきものだ。
しかし、それに抵抗する力さえ、失ってしまった現代日本においては、それでも、その価値観の在り方に抵抗する最後の砦として、アイドルがまさに‘偶像’として用いられている気がしてならない。
女性アイドルファンにおいては、彼女らを「守ってあげるよ」と思いながら、彼女らのアイドルという概念によって、彼らのアイデンティティーこそが「守られて」いるのかもしれない。
彼女を守ってあげたいと思っていた彼らが、彼女のAKB48という名のテレビの中の一種の学園というカゴを飛び出したとき、さながら、同級生が本当の女優になってしまったかのような感覚に取り憑かれはしないだろうか。
彼女を守ってあげたいと思っていた彼らが、恋敵と認識していた彼女のファンら(つまりは自分以外のファン)は本当の敵ではなく、敵はテレビの中にいる誰かやそれを作っている誰かだと思い直し、彼女への興味を薄れさせはしないか。
AKB48というシステムは、よくできている。
アイドルということで、前田敦子は守られてもいる。
そんな、リミットを乗り越えた彼女は自分のリミットを、AKB48というリミットを乗り越え、活躍してくれるだろうか。
せめて、アイドルという儚い職業を飛び越えてくれれば。
芸能界、アイドル業界の儚さの影に潰えないでほしい。
私は、期待している。
彼女の、AKB48の、
これからに目が離せない。
【参考文献】
なぜ女性アイドルは「卒業」しなければならないのか その宗教学的考察(島田 裕巳)
(URL:http://blogos.com/article/34990/)
アクセス:2012/4/4
前田敦子の「卒業」に関する宗教学的分析と民俗学的分析(凜)
(URL:http://blogos.com/article/35093/)
アクセス:2012/4/4