黒田官兵衛の生涯最後の屋敷跡は『桜の園』だった

  by 大林憲司  Tags :  

 

関が原の合戦で東軍を率いていた徳川家康が勝利すると、東軍での勝利に大きな功績のあった黒田長政は筑前五十万石を与えられ、筑前に入国しました。九州で東軍として戦っていた黒田官兵衛もこれに従い筑前国へと移り、最初は博多の豪商・神屋宗湛の屋敷に入りました。

筑前には前国主の小早川家の居城である名島城がありましたが、この地域の商業の中心地の博多から少し離れていることから、黒田親子は博多のすぐ西にある福岡の土地に城を築くことにしました。これが福岡城です。

なお、「福岡」の地名は黒田家の祖先が住んでいた備前国福岡荘(「一遍上人絵伝」にも福岡市の名前が出てきます)にちなんで付けられたものとされています。
ただ、黒田家以前に筑前国を治めていた小早川家の家臣に草刈氏という一族がいて、その草刈氏の一人が筑前の地名にちなんで一時期「福岡氏」と名乗りました。つまり黒田家が筑前に入国する以前から「福岡」の地名があったことは確かで、黒田家の名声を高めるために「福岡の地名は黒田家に由来する」ということにしたのでしょう。(「黒田家譜」を書いた貝原益軒あたりが考え付いたことかもしれません。)

福岡城の本丸の辺りには、大和朝廷が唐や新羅の使者を迎えるために設置した「鴻臚館」があったことが発掘からわかっています。昔から博多湾を見渡すことのできる低い台地だった場所で、そんな立地から黒田親子が居城として選んだのでしょう。

黒田官兵衛は城作り三大名人の一人に数えられるだけあって(諸説ありますが一般的に城作り三大名人は、藤堂高虎・加藤清正・黒田官兵衛の三人とされています)、その黒田官兵衛が縄張りに携わった福岡城は日本でも有数の堅固な城だったと言われます。

 

説明板に載っていた福岡城の古地図

現在の福岡城は堀の一部が残っているだけですが、城の主郭部を堀が取り囲み、三箇所の城門からしか中に入ることができませんでした。また城の主郭部の西には、草ヶ江という入り江の名残の大きな湿地帯(現在の大濠公園)があり、そう簡単には攻め込めないようになっていました。城の東には那珂川や石堂川、そして遠くには多々良川という河川があって城の防衛線となっていました。

 

また黒田二十四騎の中には、江戸城の石垣普請にも参加した野口一成のような石垣作りの名人もいました。そんな名人が関わった城の各部の石垣は当然ながら頑丈で(地震でも崩れないような石組にしてあることが最近の研究でわかりました)、難攻不落の城だと言っていいでしょう。
福岡城の堅固さは、同じく城作り三大名人の一人の加藤清正が褒めたほどのものでした。

筑前城郭研究会による福岡城本丸復元模型。従来、天守閣は建てられなかったとされていましたが、最近の研究では黒田長政が藩主時代の一時期だけ天守閣が存在したらしいと言われています

昔の雰囲気をよく残している下之橋御門。官兵衛の御鷹屋敷はそのすぐ中にありました

官兵衛が築いた城の縄張りの特徴の一つは「一の門である高麗門を設けない枡形門」だといわれます

天守台の石垣

天守台から見た2014年の桜の海

天守台から見た鉄御門跡の石垣。石積みのレベルの高さがわかると思います

 

当然ながら福岡城の城普請には長い期間がかかります(城が完成を見るのは官兵衛が亡くなった後です)。
官兵衛は福岡城がある程度完成するまでの間、筑前国のあちこちを渡り歩きました。最初は神屋宗湛の屋敷に入りましたが、その後、宗像郡(現在の宗像市)の江口に船乗りと共に移住したことが最近の研究でわかってきました(官兵衛の隠居領は宗像郡にありました)。晩年、最も仲がよかったという官兵衛の異母弟の黒田養心が津屋崎にいたことと、黒田の水軍の根拠地になっていた若松との連携を考えたことがあったのかもしれません。

神屋宗湛屋敷跡に建てられた豊国神社。戦災で焼けるまでご神体は、神屋宗湛が博多の街の復興に使用した測量用の博多間杖でした

しばらくすると太宰府天満宮(その当時は安楽寺天満宮)のすぐ側に庵を建ててそこに移り住みました。官兵衛は連歌を好んでおり、連歌の神様として知られる菅原道真を慕っていたからだと言われます。
太宰府に移り住んでからも官兵衛はそこでじっとしていたわけではなく、太宰府から飯塚にかけての地域を探索。その際には馬敷にある西光寺に寝泊りしていました。一応、福岡城の建設に使用する木材を探していたと言われますが、もしかすると母里太兵衛や後藤又兵衛など筑前六端城を守る黒田家の重臣との連絡ルートを確保しようとしていたのかもしれません。(その他にも京都に出かけて北政所に面会してきたり、有馬温泉に入ったりと、官兵衛は隠居とは思えないぐらいアクティブに動いています。)

太宰府天満宮宝物殿のすぐ近くにある如水社。如水こと黒田官兵衛が住んだ庵跡を記念して昭和63年に建てられたものです

 

しかし、慶長七年(1602年)、福岡城三の丸の御鷹屋敷が完成すると、官兵衛はそこに入りました。城内の三の丸内で小高くなっていた場所なので「小高屋敷」と呼ばれ、それが「御鷹屋敷」とも言われるようになったようです。
ただ、それは官兵衛が望んだものだったかどうかはわかりません。ある本によると、御鷹屋敷に入ってからの官兵衛は身の回りにいた家来たちをとにかく怒鳴りつけていたと言います。「自分を嫌って長政につくように」と官兵衛が深謀遠慮しての行為だと書かれていますが、実は御鷹屋敷に押し込められたことが不満でその不満を爆発させていたのかもしれません。
ただ、御鷹屋敷に移ってからの官兵衛は本当の隠居生活に入りました。身の回りには妻の光(照福院)の他にわずかな供しか置かずに暮らしました。また警護の若侍一人だけを連れてよく城の外に出かけました。そして福岡の町の子供たちと親しく遊んでいたとのことです。子供たちも官兵衛を慕い、そのうち官兵衛の屋敷に上がりこんで(城内なのですが)中で相撲を取って遊んでいたりしたそうです。それを官兵衛も注意することもなく楽しみにしていたそうで、天下の軍師と呼ばれた黒田官兵衛の最晩年は「子供好きのおじいちゃん」として過ごしていたようです。

 

舞鶴公園にある「ぼたん・しゃくやく園」の入り口。ここに官兵衛の御鷹屋敷がありました。奥に見えるのは母里家の屋敷にあった長屋門です

御鷹屋敷跡の説明板

「ぼたん・しゃくやく園」の名前の通り、牡丹と芍薬の名所となっています

桜の時期にはライトアップも行われました

「ぼたん・しゃくやく園」は福岡市でも有数の八重桜の名所でもあります

八重桜に囲まれる御鷹屋敷跡の石碑

 

慶長九年(1604年)三月、黒田官兵衛は静かに亡くなりました。『黒田家譜』によると、この御鷹屋敷で亡くなったことになっていますが、イエスズ会の報告書によると官兵衛は京都伏見の黒田邸で亡くなり、遺体は博多まで運ばれ、そこでキリスト教式の葬儀を執り行ったとのことです。
官兵衛がキリシタンだったことは最近よく知られるようになりましたが、筑前入りしてからは博多に教会を立てるために協力するなど、キリスト教への信仰は最後まで持ち続けました。官兵衛が亡くなった年には『天正遣欧少年使節』の一人である中浦ジュリアンが博多教会に司祭として赴任していたりするので、イエスズ会でも福岡の黒田家を重要視していたと見られます。
これらのことを考えると、おそらくイエスズ会の報告の方が正しいことを伝えているのでしょう。(なお、官兵衛が京都にいたのは病気療養のためと見られます。どうしても当時の名医は文化の中心地である京都に集中していました)

 

『黒田家譜』によると官兵衛は崇福寺に葬られたことになっていますが、イエスズ会の報告では博多教会に葬られたようです。その博多教会がどこにあったのかは詳しくはわかりません。ただ、現在の天神四丁目にある勝立寺の伝承によると、京都妙覚寺の僧侶・日忠はキリスト教の宣教師と論争して勝利し、黒田長政から宣教師の持っていた土地を寺院の敷地として与えられて勝立寺を建立したという話があることから、博多教会は勝立寺の場所にあったのではないかとする説もあります。官兵衛は最初そこに葬られたのかもしれません。

天神四丁目にある日蓮宗の勝立寺。冬至の「かぼちゃ大祭」でも有名です

 

父親である官兵衛のキリスト教式の葬儀を体験した長政は感銘を受け、キリスト教を熱心に信じるようになりました。(元々、長政は「ダミアン」という洗礼名を持っていたキリシタンでしたが、父親の官兵衛に比べればかなりキリスト教への信仰は不熱心だったとイエスズ会の報告書は伝えています。)
しかし、長政は徳川家への忠誠心が高く、その徳川家がキリスト教の弾圧に公然と乗り出してきたことで、長政も徳川幕府と同調してキリスト教の弾圧を始めます(当初はキリスト教に同情的でしたが、結局神父たちも長崎に追放します)。そして博多教会も破壊してしまいました。
この時、官兵衛の墓がどうなったのかは全くわかりません。普通ならば黒田官兵衛のお墓がある崇福寺に再葬されたと考えるべきなのでしょうが、キリスト教徒として亡くなった父親の意思に反して寺院に葬ったとも考えにくいところがあります。(荼毘に付された場合、イエス・キリストによる最後の審判に参加できなくなってしまいます。)
やはり崇福寺の黒田官兵衛のお墓は幕府に対しての仮の物で、実際には黒田官兵衛は福岡のどこかに人知れずに眠っていて、今も福岡を静かに見守っていると考えた方がロマンがあるように思います。

 

御鷹屋敷跡に咲く花たちはそんな官兵衛を慰めるものなのかもしれません。

福岡県の面白い情報を伝えようと思っています。 次のサイトにも歴史的なことについて論じています。 大林軒の天地の余事 https://dairinken.hatenablog.com/ こちらもご覧ください。 連絡先は ohbayasinzan☆yahoo.co.jp (☆を@に変換してください)

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