井上九郎衛門画像
北九州市八幡西区黒崎の町は、黒田官兵衛の重臣である井上九郎右衛門之房が開いたものです。井上九郎右衛門は三家老の一人として黒田家を支え、後世には黒田二十四騎の一人としても数えられました。
今も黒崎地区を中心とした地域に井上九郎右衛門之房ゆかりの場所が残っていますので、井上九郎右衛門之房について紹介したいと思います。
井上九郎右衛門は播磨国飾東郡松原郷植村の生まれで幼名を弥太郎といい、成長して九郎右衛門と名乗り、黒田家が筑前に入国してからは周防、出家してからは道号を道柏と称しました。
九郎右衛門は最初は黒田官兵衛の父親の黒田職隆に小姓として仕えました。官兵衛に仕えるようになったのは職隆が亡くなった後で、職隆の「役に立つ者である」との遺言を受けて官兵衛の臣下となりました。(ちなみに大河ドラマ『軍師官兵衛』では青山土器山の戦いで数多くの黒田家の家臣が戦死した後に、官兵衛に召抱えられたことになっています)
そのため、九郎右衛門の前半生は目立った武功はありません。「非常におとなしい人物だったと言われるが、主君のためには喧嘩腰になることもあった」と『黒田長政と二十四騎展』(平成20年福岡市博物館で開催)図録に記されているように、黒田家の中でもそれほど目立つ存在ではなかったようです。
ただ、ある資料によると、九郎右衛門は職隆の命令で幽閉された官兵衛を救出するために有岡城に潜入し、栗山善助(利安)と共に城内の池を泳いで土牢に幽閉されていた官兵衛に会いに行ったとのことです。このことで官兵衛から信頼されるようになったのでしょう。
その九郎右衛門が天下に名を轟かせたのは、官兵衛が天下を狙って戦ったと言われる「石垣原の戦い」(福岡藩では「豊後の陣」と呼んでいます)でした。
慶長五年(1600年)九月、天下分け目の戦いと言われる「関が原の合戦」の時に、官兵衛は中津城に貯めていた軍資金を使って兵をかき集めました。
関が原の合戦の時、九州の大名はほとんどが毛利輝元を総大将とする西軍に味方していました。その中で東軍に属していたのは、石田三成と犬猿の仲だった加藤清正、細川忠興の飛び地として与えられていた杵築城を守る松井康之、それに息子の長政が徳川家康の陣営に付いていた黒田官兵衛(この時は「如水」と号していました)くらいでした。
2014年3月に黒崎で開催された講演会のスライド。石垣原の戦いの時に着用した鎧だと言われます
西軍の毛利輝元は、これらの九州の東軍諸将を牽制するため、領地を失っていた大友吉統(キリシタン大名として有名な大友宗麟の息子)に大友家の再興を約束し、兵士と武器を与えて大友家の旧領であった豊後国(今の大分県)に下らせました。
この時、かつて大友家に使えていた吉弘統幸は豊後国に下ってくる大友吉統と面会し、その無謀さを諌めましたが、大友吉統はその忠告を聞き入れず、そのまま豊後国に下り大友家の旧臣を集めて豊後国の平定に向けて動きました。
大友吉統が豊後国に下ってくることを聞いた官兵衛は、軍勢を率いて中津城から豊後に向けて出陣。その時、井上九郎右衛門は第四番隊の武将として参加しました。
当初、官兵衛の軍勢は豊後の冨来城の攻略を目指していましたが、途中で杵築城が大友軍に攻撃されていることを知ると、久野次左衛門・曾我部五右衛門・母里与三兵衛・時枝平太夫を一番備、井上九郎右衛門・野村祐直・後藤太郎助を二番備として、杵築城の救援に向かわせました。
二の丸まで陥落していた杵築城ですが、援軍の到着を見て大友軍は別府方面へと撤退しました。
この時、官兵衛の本隊を待つべしという意見もあったのですが、撤退した大友軍を追撃すべきという意見が大勢を占め、黒田の救援軍と杵築城の松井康之の連合軍は別府方面へと兵を進めました。両軍は別府の石垣原付近で激突しました。これが「九州の関が原」とも言われる「石垣原の戦い」です。
黒崎・鳴水の貴船神社の背後にある時枝平太夫のお墓。時枝平太夫は豊前の地侍で、石垣原の戦いにも参加しました
石垣原の戦いは、杵築城の救援に成功して意気の上がる黒田軍第一陣の久野次左衛門(黒田二十四騎の一人・久野重勝の息子)が大友軍に突進。しかし、大友軍の主将となっていた吉弘統幸はこれを読んでいて、久野軍を迎え撃ちました。そして久野次左衛門を取り囲み、これを討ち取りました(一説には久野次左衛門は第二備の野村祐直と仲が悪く、功をあせったのだとも言われます)。久野次左衛門の討ち死にを知った曾我部五右衛門も大友軍に突撃して戦死しました。こうして大友軍は黒田軍の第一備を打ち破ったのです。そして松井康之軍と黒田軍第二備に襲いかかり、黒田軍第二備に攻撃を集中しました。
しかし、井上九郎右衛門と野村祐直の率いる第二陣は防御に撤していました。実は井上九郎右衛門が「攻めかかってくるものだけを討ち取れ。こちらからは攻めかかるな」との命令を出し、同輩の野村祐直にもこの命令を守らせていました(野村祐直は飛び出そうとする部下たちを槍で制していたと言われます)。
実は黒田官兵衛の本隊が冨来城攻めをあきらめ、石垣原へと向かいつつありました。また熊本の加藤清正も豊後へと援軍を送っていました。もし、この戦いで圧倒的な勝利を収められないと、豊後の他の武将たちが数に勝る黒田軍を有利と見てそちらに付いてしまう可能性があったのです。
井上九郎右衛門はこれらのことを把握した上で積極的には攻めない戦法を取ったものだと思われます。
第一備との戦いでかなり軍を疲弊させていた吉弘統幸は仕方なく、黒田軍第二備に総攻撃を敢行します。この時、吉弘統幸は死を覚悟していたと言われます。
黒田軍への突撃を敢行した吉弘統幸は、顔見知りだった井上九郎右衛門に一騎打ちを呼ばわりました。おそらく大将さえ討ち取れば軍は崩れるとの目論見だったのでしょう。知り合いだった吉弘統幸に呼びかけられた九郎右衛門もこれを受け入れ、二人は一騎打ちで対決しました。
二人とも十文字槍を手にして、激しく戦いました。何度か吉弘統幸の槍が九郎右衛門の体に当たりましたが、鎧に阻まれて致命傷にはなりません。逆に九郎右衛門の槍が吉弘統幸のわき腹を貫き、吉弘統幸は討ち取られました(一説によると、吉弘統幸が九郎右衛門の槍を受けて倒れた後、後藤又兵衛の息子である後藤太郎助の従者が吉弘統幸の首を取ったのだとも言われます)。
大友軍の次将だった宗像鎮続も、九郎右衛門の家来だった大野兄弟に手によって討ち取られて大友軍は崩壊。大友吉統も石垣原の立石の陣地に逃げ込むしかありませんでした。
折尾・正願寺境内にある大野勘右衛門のお墓。弟の休意の墓所は別の場所にあります
石垣原の戦いが黒田・細川連合軍の勝利に終わった後で、官兵衛の本隊が石垣原に到着。これで大友軍はもはやどうすることもできず、本隊にいた母里太兵衛(妻が大友宗麟の娘)を頼って大友吉統は降伏しました(ちなみに加藤清正からの援軍は石垣原の合戦の決着がついたことを聞き、熊本に引き上げました)。
この石垣原の戦いで、豊後国はほぼ東軍の勢力下に入りました(臼杵城開城を巡る太田一吉と中川秀成の佐賀関の戦いもありましたが、太田一吉は官兵衛に臼杵城を明け渡しました)。
官兵衛はその後、豊前小倉の毛利勝信(大坂夏の陣で豊臣方として活躍した毛利勝永の父親)を始め、九州の諸将を次々と降伏させていきました。そして唯一残った南九州の島津氏との対決の直前、徳川家康から進軍中止の書状が届き、官兵衛の最後の戦いは終わりました。
官兵衛が九州を席巻した戦いの中で、黒田軍が直接戦った戦闘の中で最大の戦いが「石垣原の戦い」でした。(多くの死傷者を出した「八院の戦い」もありますが、これは佐賀の鍋島家と柳川の立花家の戦いで、直接黒田軍は戦っていません。)
その石垣原の戦いに勝利したのは井上九郎右衛門の功績によるところが大きく、井上九郎右衛門とは仲が悪かったと言われる母里太兵衛ですら石垣原の戦いに関しては、井上九郎右衛門の「一人狂言」(脚本から演出・主役まで全部一人でやってのけたという意味)と称して誉めたそうです。
また戦国時代といえども、軍の大将同士が一騎打ちで勝敗を決めた例はあまりなく、その点でも石垣原の戦いは評判となりました。
二代将軍徳川秀忠も井上九郎右衛門に興味を持ち、直接面会した上で井上九郎右衛門の子供の一人を旗本として召抱えたほどでした。
関が原の戦いに参加していた黒田長政は東軍の勝利に大いに貢献し(東軍の勝利を左右した武将たちの調略にほとんど関わったと言われます)、徳川家康から筑前五十万石を与えられました。
井上九郎右衛門は筑前国の東端の遠賀郡に一万七千八百石余りを与えられ(江戸時代、一万石以上を領有する武家が大名と呼ばれたので、黒田の家臣とはいえ、小さな大名クラスに等しい身分でした)、黒崎城を築き、その城下町として黒崎の街を開きました。
黒崎城は現在では城山と呼ばれる、洞海湾に突き出した台地上に築かれました。唐津街道(冷水峠開通後は長崎街道)を通って東から攻めてくる敵に備えると同時に、舟入を持ち、黒田水軍の拠点だった若松城と連携して水軍の基地の一つとしても機能したものと思われます。
黒田家は細川家と関係が悪化したこともあって、黒崎城や若松城の他にも、細川家との藩境に近い場所に鷹取城・益富城・松尾城・左右良城を築き、それぞれ黒田家の重臣に守らせました。これを筑前六端城と呼びます。
桜の季節の黒崎城址
頂上部付近にほんの一部だけ城の遺構が残っています
黒崎城の頂上は公園になっています
黒崎城の石碑
黒崎城から見た皿倉山
しかし、筑前六端城の存続した期間は短く、大坂の夏の陣が終わった直後に出された一国一城令によって破却されてしまいます。
井上九郎右衛門も黒崎城を破却し、黒崎の街の西にある陣の原に屋敷を建ててそこに住みました。現在、屋敷跡には舎月庵というお寺が建っていますが、井上九郎右衛門に関するものはあまり残っていません。
陣の原にある舎月庵
また禅宗に深く帰依していた井上九郎右衛門は領地の中にあって荒廃していた臨済宗の龍昌寺を復興し、しばしば龍昌寺に参禅したそうです。
そんな静かな生活を送っていた井上九郎右衛門でしたが、またもや黒田家のために働かなくてはならない事態が生じました。
寛永九年(1632年)、福岡藩の二代藩主黒田忠之と、栗山善助(利安)の息子であり黒田家の家老を勤めていた栗山大膳の関係が悪化し、ついには栗山大膳が「忠之に謀反の疑いあり」と幕府に訴えた、いわゆる『黒田騒動』を引き起こしました。
井上九郎右衛門は福岡藩存続のために奔走し、翌年江戸において黒田美作(官兵衛を助けた有岡城の牢番の息子で幼名は玉松。黒田二十四騎の一人。黒田長政に信頼された)と共に栗山大膳と対決し、福岡藩を守ることに成功しました。
黒田騒動から黒田家を守った井上九郎右衛門でしたが、それからまもなくの寛永十一年(1634年)十月二十二日、病気で陣の原の屋敷で亡くなりました。お墓は岡垣町高倉の龍昌寺にあります。
龍昌寺本堂。釈迦如来と准提観音を祀っています
龍昌寺にある井上九郎衛門のお墓です
黒崎祇園に参加した黒田二十四騎行列に参加した井上九郎衛門。演じているのは何と井上九郎衛門のご子孫である井上成人さんです。(ただし、井上九郎衛門の甥と言われる井上五郎兵衛道喜の子孫とのことです)