母里太兵衛が築いた天空の城に登ってみた

  by 大林憲司  Tags :  

福岡県直方市には、黒田二十四騎の一人である母里太兵衛が居城とした鷹取城があります。中世の山城を引き継いだもので、結構険しい山の上に石垣跡などが残っています。その鷹取城に登った時の記録を記事にしておきます。(なお、鷹取城への登山自体は2013年5月のものです。現在とは少し状況が違うかもしれません)

関が原の戦いで、徳川家康率いる東軍の勝利に大いに貢献した黒田長政は、筑前国を与えられ、豊前国の中津城から筑前国の名島城に入城しました。
その際黒田家は、次の藩主のために置いておくべき分の年貢を筑前へと持ち去ってしまいました。当然のことながら豊前国を領地として与えられた細川家は経済的に困り、黒田家が持ち去った年貢の返還を強く迫りました。しかし、黒田家は年貢をなかなか返還しようとはせず、ついに細川家は阿武船(当時の戦艦)で関門海峡を封鎖して黒田家の船の臨検を行おうともしました。黒田家と細川家は戦争勃発寸前まで行ったのです。結局、徳川幕府の仲介で黒田家は年貢の返還に応じましたが、黒田家と細川家は絶縁し、両者の間に強い緊張状態が生じました。
その結果、本拠地を福岡城に移した黒田家は筑前国の東の国境近くに六つの城を築いて守りを固めました。これを「筑前六端城」と呼びます。
筑前六端城は、北から水軍の拠点若松城・井上周防の黒崎城・母里太兵衛の鷹取城・後藤又兵衛の益富城・豊前国の豪族だった中間統種が治めた松尾城、それに黒田家の筆頭家老だった栗山備後の入った左右良城(までらじょう)の六つです。
ただ、松尾城と左右良城は、豊前国の境ではなく、豊後国との境に築かれた城なので、細川氏との対決以外の理由があったのかもしれません。(豊後国の日田には幕府の天領がありました。)

鷹取城に入った母里太兵衛ですが、黒田家一番の武勇を誇り、また福島正則から名槍・日本号を呑み取ったことでも知られる豪傑です。
鷹取城は中世から続く山城ですが、現在残る山頂の主郭部の石垣は母里太兵衛が築いたものだと考えられます。母里太兵衛は鷹取城の麓の永満寺地区に屋敷を構え、鷹取城の城下町を築きました。そしていざと言う時は背後にある鷹取城に登って籠城できるように備えていました。

永満寺地区に残る母里太兵衛の屋敷跡。上は駐車場みたいな場所になってます

 

永満寺地区から見上げた鷹取山

 

筑前城郭研究会製作の鷹取城復元模型

 

ただ、永満寺地区から鷹取城に登る古い道は、現在廃道になっているようで使えません。鷹取城へ登るためには、直方市内ヶ礒の福知山ダム、あるいは福智町の上野(あがの)峡から登ることになります。内ヶ礒へはJR直方駅から西鉄バスが、上野峡へは平成筑豊鉄道赤村駅からコミュニティーバスが出ていますが、いずれも本数が少ないので注意が必要です。

私は上野峡から登る道を選びました。上野峡は白糸の滝や興国寺があることでも知られる福智町の観光地です。なお、この地区は昔は豊前国なので、もしここから鷹取城に登ろうとする武士がいたら、当然母里太兵衛から敵と見做されたことでしょう。

上野峡入り口にある説明版

 

上野峡入り口のバス停からは車も通れる林道が山の中に続いています。ただし、林道の入り口にゲートがあり、車で通れるのかどうかはわかりませんでした。
この林道をひたすら登ると(結構長くて疲れます)鉄塔のある場所に出ます。そこからは山道になり、その山道を進みます。かなり狭い部分もありますが、それほど迷うこともなく、上野越という尾根に出られました。(途中で水の手らしき場所がありましたが、当時の鷹取城の施設なのかはわかりません。)
なお、直方市の内ヶ礒ダムから登ってきた場合も、この上野越にたどり着きます。

 

水の手らしき場所

 

この上野越から西に進むと鷹取城のある鷹取山にたどり着きます。ただ、福智山方面から鷹取城を見下ろした写真を撮影したかったので、東の福智山へと歩を進めました。いやー、これがキツかったです。結構急な登りが福智山頂の真下まで連続して続いているので、途中で体がどうかなりそうでした。

福智山の頂上が見えます

 

何とか福智山について一休み。福智山の山頂は大きな岩がゴロゴロしていて、修験道の山に相応しい霊気の漂う場所でした。福智山からも鷹取城は見えるのですが、福智山の東にある「八丁越」(名前からすると峠のようですが、間違いなく山のピークの一つです)へと向かいます。

福智山の頂上部分

 

福智山から見た八丁越

 

しばらく歩いて八丁越へ。ここからは鷹取城がよく見えます。当日はPM2,5の影響で遠くの風景はかすんでいましたが、鷹取城の主郭部の構造もわかるほどです。ここから見る鷹取城はまさしく天空に浮かんでいるようで、「筑前の天空の城」と呼んでも過言ではないと思います。

八丁越から見た鷹取城

 

なお、上野峡の白糸の滝から八丁越を通って福智山に登るルートもあります。やっぱり登るのは大変なようですが。
八丁越から福智山頂直下まで引き返し、そこから再び上野越へと向かいます。帰りは下りが続くので行きと違って楽かと思いましたが、下りの連続で膝に負担がかかります。やはり修験道の修行の山だということでしょう。
上野越まで戻り、いよいよ目的の鷹取城へ。上野越から鷹取城まではそれほどキツくはありません。途中には城の防御施設跡ではないかと思われる場所もあり、城跡だということを実感できます。今はうっそうと樹木が茂ってますが、当時は山肌が剥き出しで、畝状縦堀が何本も掘られて、下から上がってくる侵入者を迎撃するようになっていました。今はその堀跡もよくわからなくなっています。

鷹取城の空堀跡?

 

しばらく歩くと鷹取城の主郭部に到着します。鷹取城は元和の一国一城令で城割がなされていますが、一部には石垣も残っています。枡形の城門跡も構造がよくわかります。
またこの鷹取城主郭部からは眺めがよく、福智町から遠賀町方面まで一望できます。当時も鷹取城の上からこれらの地方に睨みを効かせていたのでしょう。

鷹取城頂上部

虎口部の石垣がよく残っています

天守台跡から見た福智町の様子

 

それにしてもこの城の鉄壁の防御体制には驚きます。登るだけでも大変な山の上に、石垣を築いて主郭部を作り上げています。特に直方の永満寺方面に続く大手門の外はどう見ても崖状態になっています。(一説には門の外には木製の階段がかかっていたとも。)
その上、城主が日本号を手にした母里太兵衛なのです。これはもう力押しでは決して落とせない城だと言っていいでしょう。

しかも母里太兵衛は鷹取城の石垣をもっと高くしようとしていたらしいのです。主君である黒田長政に止められて思いとどまりましたが、母里太兵衛のこの城にかける思いを見る思いです。

その後、益富城の後藤又兵衛が、黒田長政と仲違いをして黒田家を飛び出してしまいます。代わりに母里太兵衛が益富城に入り、鷹取城には手塚水雪が入りました。そして元和の一国一城令により廃城となりました。

しかし、母里太兵衛はこの城が気に入っていたようで、鷹取城からよく見える福智山のことを「富士山より高い」と死ぬまで言い続けていたそうです。
母里太兵衛は益富で亡くなり、益富城近くの麟応寺に眠っています。

福智山系。真ん中が福智山と八丁越、左のピークが鷹取山です

 

 

さて、最後に鷹取城関係のお土産の紹介を。JR直方駅から歩いて五分ほどの所にある古町に大塚菓子舗という小さな和菓子屋さんがあります。
その大塚菓子舗では鷹取城にちなんだ「鷹取城最中」を販売しています。現在は「鷹取城最中」という帯はついていないようですが、最中としても美味しいので、鷹取城の名前の付いたお土産としてぜひともどうぞ。

直方市にある大塚菓子舗

 

右が川筋饅頭、左が鷹取城最中。いずれも大塚菓子舗のオリジナル商品です

 

 

参考 鷹取城跡
http://fukuokakanbe.jp/info/?id=44

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