書籍『トラック野郎 50年目の爆走讃歌』刊行記念! 小川晋(著者)+川原和彦(かわらのジョナサン)対談第1回 「私たちはバンダイといえば『トラック野郎』!」

  by リットーミュージックと立東舎の中の人  Tags :  

トラック野郎研究家として書籍『トラック野郎 50年目の爆走讃歌』を刊行した小川晋氏と、その盟友として「強行ロケ地調査」を敢行している「かわらのジョナサン」こと川原和彦氏。年令も同じなら、遅れてきた者として『トラック野郎』に注ぐ情熱もひけを取らない2人が、雑誌連載時の「爆走讃歌」から書籍刊行までの道のりを振り返る。『トラック野郎』マニアにもさまざまあれど、資料性を重視する物質主義の先鋭による対談第1回、ぜひご堪能あれ!

『トラック野郎 50年目の爆走讃歌』
小川晋 著/立東舎 刊
定価3,300円(本体3,000円+税10%)
https://rittorsha.jp/items/25317420.html

あまり知られていなかった(?)連載「爆走讃歌」

川原 「爆走讃歌」の書籍化、本当におめでとうございます! そしてお疲れさまでした。実は私はもともと「爆走讃歌」の連載が始まった頃、掲載誌である『トラック魂』を読んでおらず、「爆走讃歌」の存在をあまり認識しておりませんでした。しかし(菅原)文太さんが亡くなり(2014年11月28日)、桃次郎の特集で初めて『魂』を購入し、「爆走讃歌」を初めて目にしてからは買い続けました。

小川 ありがとうございます。連載から書籍化までの経緯は本書の序文でも記しましたが、今から約10年前の『トラック野郎』Blu-ray BOX発売記念のプロモーションとしてデコトラ雑誌『トラック魂』で「爆走讃歌」の連載が始まりました。『トラック魂』も創刊から間もない頃でしたから、私もどんな『トラック野郎』の企画がファンに関心があるのか、ホントに手探り状態だったんです。そして関係者インタビューの形式が固まり出し、そうなると次々とインタビュイーを見つけないと連載が終わってしまいますから、常にお尻に火が着いている状態でしたよ。

川原 小川さんと知り合ったのもちょうどこの少し前ですよね。

小川 そうか、その頃に川原さんとは知り合ったんでしたね。菅原文太さんが亡くなる約半年前の5月15日に鈴木則文監督が亡くなり、その追悼集会だったかと思います。

川原 そうです、初顔合わせは2014年8月の夏の全国哥麿会・小千谷の時。鈴木監督がこの5月に亡くなられ、その追悼イベントをするということで山形県から駆けつけました。その時、原田大二郎さんやボロボロの一番星号と一緒にいらっしゃったのが小川さん。監督の奥様の代理で来られており、それを見た瞬間「絶対捕まえて話さないと!」と思いました(笑)。もちろん、目標通り話したお陰で現在に至ります。私はよく言っていますが、監督が出会わせてくださった縁なのだろうと。

▲2014年8月の全国哥麿会による鈴木則文監督追悼集会の模様

小川 ああ、小千谷のイベントでしたね。おっしゃる通り、則文監督が巡り合わせてくださったのかもしれません。

川原 そういえば「爆走讃歌」の連載時は、「あの人を取材したら良いんじゃないか」と、2人でよく話していましたよね。私がリクエストし続けていたのが宇崎竜童夫妻でしたから、今回インタビューしていただいたことに感謝しています。

小川 宇崎竜童さん、実は私がムック『トラック野郎大全集』をリリースした2010年の時もインタビューを検討していたのですが、なかなか実現しなかったんです。今回は書籍の出版が決まり、発起人の元東映宣伝部・福永邦昭さんに真っ先に相談して「新規インタビューをぜひ!」ということで。『御意見無用』ご出演時のエピソードはもちろん、楽曲「一番星ブルース」完成までのお話も伺いたいので、阿木燿子さんも! と欲張ったことを申し上げたら、結構早いタイミングで「ブッキングできました」というご連絡をいただき、もう、夢のようでした。

川原 ちなみに今回の書籍については、「はじめに」「トラック野郎の世界へようこそ!」「おわりに」を先に読みました。そして本編は、まず私の大好きな俳優である高月忠さんをはじめに読ませていただき、小川さんにお勧めいただいた小野みゆきさん、黒沢年雄さんは優先的に拝読。黒沢さんは、自分が想像していた感じと全く違いました。撮影時のことを忘れられている俳優さんが多い中、あんなにしっかり語ってくださるとは思いもよらず……。

小川 高月忠さん……この方も『トラック野郎』シリーズには欠かせない方です。この方の声を聞いただけで、テンションが上がりますよね。高月さんだけでなく、清水照夫さん、団巌さん、奈辺悟さん、河合弦司さんなど、トラッカー役の方々にインタビューしたいと思っていたのですが、連載が始まった時点で皆、既にお亡くなりになっていたんですよ。

川原 あと10年早ければ、グループ一番星の面々にもインタビューできていたでしょうね……。

小川 2000年前後であれば、もっともっとスタッフ、キャストの方々の証言を残せたのになーと思います。音楽の木下忠司さんは2007年にリサイタルを名古屋で開催されるということで、追っかけたこともありました。お祝いの花束をお贈りした際、『トラック野郎』の音楽について伺いたい旨の手紙を添えたのですが、何百何千と作曲をされている木下さんですから、後日、「申し訳ない、トラック野郎の音楽についてはほとんど記憶がないのです」と返信のお手紙をいただき、とても残念だった覚えがあります。

川原 もともと連載で発表された方の記事は加筆されているのですか?

小川 基本的に連載分に加筆はしていません。ただ連載時、文字数の関係でエピソードの一部をオミットせざるを得なかった回はそこそこあるんですよ……。

もはやマニア云々の領域ではない

川原 本書に記事が掲載された方で、私が直接お話ししたことのある方は、原田大二郎さん、高月忠さん、梅津昭典さん、吉崎元さん、井上眞介さん、福永邦昭さん、宮﨑靖男さん、中村保次さん。多くはありませんが、これだけの方々に出会わせていただいたのも、小川さんとの縁が大きいです。中でも助監督だった吉崎さんは私の「強行ロケ地調査」(作品ごとの地方ロケ分の現地写真撮影・調査を約1週間で全て完了させる奇行)にもお付き合いいただき、その後も懲りずに参加していただけているのは本当に感謝です。初めてお会いしたのは、高田橋で開催された「関東み組」のイベントの時。初対面にもかかわらず、「ラーメン食べない? ご馳走するよ」と。私は家来になりました(笑)。しかし吉崎さんの私的資料である過去参加作品の台本は、本当にすごいですよね。あのメモにどれだけ助けられたか……。これにより、綺麗な台本より書き込みのある台本の方に価値があるという認識になった次第です。まぁ頭がオカシイといわれる領域かもしれませんが(笑)。

▲チーフ助監督・馬場昭格氏所有の台本より

小川 『爆走一番星』『度胸一番星』「突撃一番星』『故郷特急便』の助監督・吉崎元さん、そして『御意見無用』『天下御免』の助監督・井上眞介さんのお話は興味深いですよね。やはり助監督さんは撮影現場はもちろん、鈴木監督の側近ですから、いろいろなエピソードを体験した方が多いわけです。川原さんとしては、他にどんな方のインタビューを読みたかった、とかはありますでしょうか?

川原 私が読んでみたい(みたかった)方は、坂口松男(ボロ松)・花巻病院医師水谷役で出演された沢竜二さん。由利徹さんも叶わぬ夢ですね。鈴木監督も由利さんにインタビューすると言ったら喜ばれたんじゃないでしょうか。あとは……叶わぬ人ばかりですが岡田茂さんですとか、キンキン(愛川欽也さん)の当時の事務所(株式会社カントリー)の社長だった北本正孟さん、そして笑福亭鶴光師匠、笑福亭鶴瓶師匠、関根勤さんはエンターティナーなので読んでみたいですね。小川さんがインタビューしたかった方も教えていただけますか?

小川 沢竜二さんは新規インタビューの検討リストに入っていましたが、2025年5月に亡くなってしまったんですよね。由利徹さんはホント、インタビューしたかったです。あと、山城新伍さんは2000年前後はまだご健在でした。私が学生時代、映画版『サラリーマン金太郎』(三池崇史監督)で美術小道具のアルバイトをしていた時、新伍さんがゲスト出演されていて、休憩時間に接近することができたんですよ。だけど緊張して何も話せなかった(笑)。

岡田茂さん……そりゃお話ししたかったですよ、東京撮影所長の幸田清さん、専務の鈴木常承さんとくれば、やはりね。そして北本さんは連絡先が全くわからず、そのままになってしまったんです。ジョナサン一家次男・梅津昭典さんの話によると、長男の梅地徳彦さんも株式会社カントリーに一時期在籍していたようですし、もう少し調査をするべきでしたね。

それから最近、編集者からの情報で『熱風5000キロ』の安曇野を演じた工藤堅太郎さんのFacebookでの投稿を確認できました。拝見したところ、「久しぶりに『熱風』を観ました!」と記されていたので、ぜひインタビューしたいですね。あとは、先ほど述べたジョナサン一家長男・梅地徳彦さんですね。

川原 そう来ますと美智子役の白取雅子さん、華子役の菊地優子さんの記事もぜひ欲しいです。幸五郎役の吉崎勝一さんならすぐに可能かもしれませんが、残念ながら全く何も覚えていらっしゃらないでしょう(笑)。他に叶優子さん、亜湖さん、吉川団十郎さん、武士さん……。リストは延々と続きます。

小川 2000年頃、『怪傑ライオン丸』について梅地徳彦さんにインタビューされたことがある特撮研究家・堤哲哉さんとコンタクトをとりましたが、その時点で既に梅地さんとは音信不通になっていたそうです。ジョナサン一家・次男の梅津さんも再会を心待ちにされているので、何とかお会いしたいところです。白取さん、菊地さんも全く情報がないです。

叶優子さん、相川圭子さんといったトルコ嬢役も良いですね。実は則文監督がご健在の頃にも消息を伺っていましたが、結局誰も連絡がつかなかったという経緯があります。

川原 2025年7月の新文芸坐「銀幕を駆ける一番星」にゲストで登壇された、中島ゆたかさんがこんなに早く亡くなられたのは本当にショックでした。

小川 中島ゆたかさん逝去のニュースは早朝のヤフーニュースで見たのですが、言葉にならなかったです。先ほどからお名前が挙がっている、『トラック野郎』シリーズに助監督として就いた吉崎元さんから私のところにメールが入り、「ゆたかさんは新文芸坐の『トラック野郎』上映会にお越しいただきましたが、みなさんにサヨナラを言いに来られたのですね……」というメッセージに、目頭が熱くなりました。

川原 実際にインタビューをされてみて、特に印象に残っている方はどなたでした? もちろん皆さん素晴らしかったと思いますが、その中でも特にという方がいらしたら教えてください。

小川 特に印象的だった方は第1作『御意見無用』で助監督セカンド、最終第10作『故郷特急便』で助監督チーフだった、新井清さんですね。実は時間の関係であまりお話を伺えなかったんです。作品づくりの面で、まだ手さぐり状態だった第1作とシリーズ終焉の第10作に携わった助監督は新井さんだけなんですよ。いずれ必ず再会して、作品が時間と共に変化し、どのような印象もお持ちだったかを改めてお伺いしたいと思っていたのですが、2021年に突然、お亡くなりになってしまって。

川原 なるほど、そうだったんですね。私は「爆走讃歌」に載ったスタッフさんの中でも、先ほどお名前が挙がった井上眞介さんの生の話が楽しくタメになりました。正直、「爆走讃歌」に載ったのは氷山の一角の話だろうというくらい(笑)。井上さんにお会いできたのは、吉崎さんのお陰様々でしたね、本当に。四国(『天下御免』)の調査時に急にお会いできる運びになるとは思いもよりませんでした。ご自宅しっかり覚えていますよ(笑)。ロケ地調査の時間を調整してもお会いできて良かったです。あの楽しい時間を思い出します。

▲『トラック野郎 50年目の爆走讃歌』より、新井清さんの記事冒頭ページ

小川 井上眞介さんのインタビューは4時間くらい行ったのですが、その後「則文監督へ献杯しよう」ということになり、居酒屋で2時間、その続きを語って下さって(笑)。東京撮影所長の幸田清さんのインタビューも長かったのですが、それ以上ですからね。『天下御免』での闘牛場乱闘アクシデントなど、非常に濃い取材でした。

川原 正直に言って、小川さんのされてきたスタッフさんの解読(テロップに出ていない作品ごとの関係者を見つけていく)や「爆走讃歌」のインタビューはやろうと思ってできるものではないです。もはやマニア云々の領域ではない。だからこそ『50年目の爆走讃歌』を刊行できたわけでしょう。お手製の『新聞資料集』(小川晋氏が全国の新聞(スポーツ紙・地方紙を含む)のトラック野郎に関する記事を集めた私家版資料)にしても、やる気があればやってできないことはないかもしれませんが……並大抵の労力ではない。普通じゃ絶対に途中で諦めます。私も『新聞資料集』の地方紙分に載せたロケ地案内図で協力させていただきましたが、あれも良い想い出です。

▲新聞5大紙と全国のスポーツ紙に掲載された関連記事と各作の広告を網羅した『トラック野郎 新聞資料集』全7冊と、日本全国の地方紙に掲載された関連記事を地域ごとに纏めた『トラック野郎 新聞資料集 日本縦断』全7冊。知人のマニアのみに配布されたが、近いうちに国立映画アーカイブ図書室にも納められる予定だという

「かわらのジョナサン」とは何者か?

川原 先ほど、出会いについて簡単に触れましたが、ここで少し私のことをお伝えしようと思います。デコレーショントラック専門誌『カミオン』の読者にはお分かりいただけている方もいらっしゃると思うのですが、一般的には「誰?」状態だと思いますので。

2002年頃だったか、ネットが普及しはじめたのに乗じ、『トラック野郎』好きの仲間のつながりが出てきたんです。その時に知り合ったのが、現在函館在住の「マルユキ商店」さん。『トラック野郎』のバックに流れる音楽を一緒に解読し、曲集めを行っておりました。初めてお会いしたのは大阪で10分くらい。2回目に会った時には家に泊めていただいて……(笑)。その彼が今回の50周年ロゴのデザイナーさんなんですよ。当時の私はもともとの地図好きに乗じ、ロケ地探しをボチボチ始めていました。小川さんのお名前は『カミオン』や『トラックキング』で拝見しており、世の中には似たような好き者がいるもんだなと思っていたんです(笑)。年齢も同じだと。そうこうするうちに小川さんは『トラック野郎大全集』を出版され、この頃にはトラック野郎研究家として認められてきた。私はいち読者として見ていながら、ひたすら独自研究を行っていました。ただ、当時は北海道在住でしたから、そんなに幅の利いた活動はできなかったんですね。それが2011年「東日本大震災」の時に東北(青森県)に転勤となり、初めて北海道から出たことで大きく流れが変わりました。ただ悔やまれるのは2012年の哥麿会(うたまろかい)の夏のイベントだったか、鈴木監督と吉川団十郎さんがゲストで来られたときがあって、それに行かなかったんですよ。また機会があるだろうと。結局2014年5月15日を迎えてしまい、もうなんと言ってよいやら……。そのお陰で、逆に今の流れがあるとも言えますが。2017年には『度胸一番星』の公開40周年記念で、『カミオン』に「大人の自由研究・ロケ地調査」として記事を掲載していただきました。その後はコロナ禍等もあり3年ほど間が空きましたが、第1作の公開45周年の時に第2弾として復帰し、以降年に1~2作品を掲載中です。

小川 2002年だと、映画『トラック野郎』をテーマにした初の出版物である、『カミオン』増刊の『天下御免の特別號』がリリースされる前年ですね。私が国会図書館で『トラック野郎』の記事が掲載された、当時の雑誌を調査し始めた年です。まだ、鈴木則文監督とも知り合っていません。偶然にも『天下御免の特別號』が発売された直後、私は『トラック野郎 資料集』という500ページ越えの本を5冊限定で自主出版し、そのうちの1冊を監督へ送付したのが、その後に監督と交流を持つきっかけとなったのです。もしここで川原さんと出会っていたら、全く別の展開となっていたでしょうね。しかし、ムック『トラック野郎大全集』も発売されてから早15年も経ってしまいました。

川原 その頃の時系列ってそんな感じだったんですね。私が初めてPCを持ったのが2001年か2002年だったはずで、その頃に出会っていれば……全く違うでしょうね。

▲鈴木則文監督と小川氏が交流を持つきっかけとなった、私家本『トラック野郎資料集』(2003年発行、非売品・限定5部)

「これは子供に観せる映画じゃないなぁ……」

川原 私たちの年齢(1972年生まれ)って、劇場で『トラック野郎』を観ている人といない人に分かれるじゃないですか。私たちは劇場で観られなかった組。私はそれ以前に、父親がポピニカ「光るトラック野郎」をミニカーの1台として買い与えてくれたんです。映画も未だ見たことのない当時に(笑)。それが『トラック野郎』との出会いでした。モノは爆走だったか天下だったかは不明。現在は廃車置き場の箱もあおりも無いトラックになっています(笑)。そして土曜ワイド劇場での出会いになります。小学校1年生の頃には「一番星」の名を認識していた記憶があります、トレーラーに「一まんぼし」って自分で書いた紙を貼って遊んでいましたから。小川さんはどんな感じで『トラック野郎』に出会いましたか?

小川 そう、われわれは劇場での封切りを観られなかった組ですね。私がポピニカ「光るトラック野郎」の存在を知ったのは、実は成人になってからです。もちろん、バンダイの1/48プラモデルはいくつか買ってもらって作りましたが……。『トラック野郎』に最初に触れたのは1976年の8月、4歳の時。お盆休み、群馬県桐生市にある、父の実家に家族で行った際、私はたまたま新聞に載っていた『望郷一番星』の広告に興味を持ち、父の兄である叔父さんに「これは何?」と訊ねた記憶があります。『望郷一番星』なんていう文字は読めませんが、文太さんが牧場で使うピッチフォークを担いでいるポーズを鮮明に覚えているので、間違いありません。ここで初めて「トラック野郎」という言葉を覚えました。数日後、従兄弟(当時小学生)が私の父に「トラック野郎を観に行きたい!」とせがみ、父とふたりで観に行ったんです。今から思えば、『トラック野郎』って大人だけでなく、子供にもかなり人気があったんですよね。しかし私はまだ4歳ですから、映画なんか観たこともないけど、子供心に「ずるい! なんで自分も連れてってくれないの!」みたいな妬みを感じていました。「大人になったら絶対観たい!」っていう思いがあったみたいです。映画館から帰ってきて、父が「これは子供に観せる映画じゃないなぁ……」と言ったのが、忘れられません。

川原 映画館に行く親であるのが羨ましいです。わが家は映画館自体に行く家庭環境にあらず、『トラック野郎』が映画だと認識したのは小学校高学年くらい。それまでは、テレビでたまに放送する長時間ドラマくらいの認識でした。1978年12月16日の夜にテレビ朝日「土曜ワイド劇場」の特別編として初放映された『トラック野郎 御意見無用』を見ていたのが始まりです(注※)。でも『トラック野郎』より前に『火曜日のあいつ』は当時テレビ放映で見ていました。子供心に記憶が残っているのは、丸太の橋を渡ったり、燃えている倉庫にバックでトラックが入っていくシーンなど……。ただそれ以来一度も目にしたことがないから、正しいかどうかは不明ですが。そして小学校2年生の頃に初めてバンダイ1/48「突撃一番星」のプラモデルを購入。この頃になると土曜日の午後にテレビ放映されていたこともあり、半ドンのため友達が遊びの誘いに来るも「今日は『トラック野郎』がテレビでやるから遊べない、じゃあね」と断っていたような小学生でした。『仮面ライダー』やヒーロー戦隊もの、ロボットアニメには全く見向きもせず、われわれの世代のど真ん中である『ガンダム』は、1話も通して見たことがありません。『トラック野郎』一筋の健全な小学生で、周りにはいないタイプでしたね。そりゃそうか(笑)。
(注※):1979年4月7日『トラック野郎 爆走一番星』の可能性もあり。ここの記憶は曖昧。

小川 小遣いはくれなくても映画には理解ある家庭でしたので、私は小学生でも『E.T.』や『グレムリン』なんかを映画館で観ていました。しかし、『トラック野郎』に関しては否定的でしたね。「勉強もしないで、また『トラック野郎』なんか観てる!」と、よく母にはドヤされましたよ(笑)。プラモデルについては、今やアオシマから精巧な一番星号がモデル化になっていますが、私の青春はバンダイの1/48ですね。今見てもちゃちだけど、思い入れがあります。川原さんが最初に手に入れたのは「突撃一番星」でしたか。私は「天下御免」です。そして『ガンダム』ねぇ……ホント、流行っていたけど、私も未だまともに観たことがないです。たいていのクラスメイトはガンプラにむさぼりついていたけど、私はバンダイ『トラック野郎』の1/48はほとんど作りました。でも「爆走一番星」はなぜか見つからなくて、何件もプラモデル屋をハシゴしたこともありました。

川原 われわれの世代はバンダイといえば『ガンダム』。でも私たちはバンダイといえば『トラック野郎』。私も1/48を好んでいたというか、それしか手が出なかったというか……。当時1,200円で何とか買えましたが、8,000円の1/20は買えませんでしたからね。物心ついて1/48望郷とか欲しいと思ったときには全く見ることもなく、当時は天下、度胸、突撃、熱風、故郷、ジョナサンしか手に入らなかった。実際は1/48も1/20も突撃しか作っておらず、あまり模型には手を出しませんでした。そのうち1/48は発売されなくなり、その反動か再販の時は一山大人買い(笑)ただ、あのレアな1/20ジョナサン号は買ったんです。その頃からジョナサンに縁があったのかな。ディティール的には1/32「一番星列島縦断」や「男の出陣」は良かったですね。あの仕様の「故郷特急便」があったらと未だに思います。私は「一番星列島縦断」を購入。当時3,000円、今では考えられないコスパです。後のラジコンの型ってあれの気がしてならないのは私だけですかね、メイン行灯の妙な大きさとかが通ずる気が……。それでラジコンは4台手を出しました。

小川さんが言われるとおり、アオシマの一番星は精巧ですが、バンダイのチープさがまた心をくすぐる。精巧さでは青森に住んでいた頃に知り合った伝説のモデラー藤井忠右ェ門さんの作品は本当に素敵でした。才能のない私からは神にしか見えない。アオシマのモデルがない頃から、あのレベル以上の作品を作っていたんですから。

小川 確かに小学生レベルで1/20は高値の花でした。「天下御免」「度胸一番星」「突撃一番星」「熱風5000キロ」はパッケージがイラストでしたが、「故郷特急便」だけ実物の写真が使用されていたことで人気があり、大抵売り切れていた印象がありますね。1/48、今や未組立だと数十万円の価値を誇る「ボルサリーノ2」および「雲龍丸」はいつ頃まで発売していたんだろう……?

川原 雲龍丸は1980年くらいのバンダイのカタログには載っていなかったようですから、シリーズ終焉前にはラインナップから消えていた可能性が高いですね。ボルサリーノ2の実際の発売は天下御免が発売になった後だということを考えると、何らかの大人の事情で、映画公開から1年くらい発売のブランクがあったようですね。それが故、ボルサリーノ2のボックスアートで後方を走る車輌が天下御免の一番星号だったのでしょう。それにしても、あの頃はプラモデルもリーズナブルで買いやすい時代でしたが、まさかこんなに価値が上がるとは思っておりませんでした。

PROFILE
小川晋(おがわ・しん)
1972年、東京都町田市出身。2001年、日本映画学校(現・日本映画大学)演出科を卒業後、『キューティーハニー』(2004年 庵野秀明監督)や『火火』(2005年 高橋伴明監督)等で装飾小道具を担当する一方で、日本娯楽映画の映像文化を研究。特に『トラック野郎』に関しては、幼年期にたまたまTV放映で観たシリーズ第1作『御意見無用』のクライマックス、ズタボロになった一番星号の爆走シーンに強烈な衝撃を受けて以来、果てしなき探究を続ける。2014年『トラック野郎ブルーレイBOX 2』(東映ビデオ)ブックレットの構成・解説、翌年リリースのCD『歌え!!トラック野郎』及びCD第2弾『帰ってきた!!トラック野郎』(ユニバーサルジャパン)のサウンドトラックディスクの選曲・掲載データ作成に従事。2022年、デコレーショントラック専門雑誌「カミオン」(芸文社)で、『トラック野郎』シリーズ全作を担当した美術監督・桑名忠之氏が作成したロケハン記録で撮影当時を同氏と振り返る「スクラップブック回想記」を連載。著書に『映画トラック野郎 大全集』、共著に『実録やくざ映画大全』(ともに洋泉社)、『アデュ〜 ポルノの帝王 久保新ニの愛と涙と大爆笑』(ポット出版)、『不良番長浪漫アルバム』(徳間書店)など。「トラック魂(スピリッツ)」(交通タイムス社)で約3年間掲載された連載記事をまとめた『トラック野郎 50年目の爆走讃歌』を昨年10月に刊行。

川原和彦(かわはら・かずひこ)
1972年北海道恵庭市出身。幼少期からの地図好きと車好きが高じ、TV放映で観た一番星号を始めとするトラックの爆走シーンに釘付けとなる。地図好きとトラック野郎好きな子供が、一番星号の通った軌跡を地図で追っていたのが功を奏し、ロケ地の本格的調査研究をはじめる。1991年札幌学院大学入学後、映画研究会に所属し、同大学卒業後は自身の趣味を生かし、地図調製業を生業とし現在に至る。
国内Aライセンスを取得し、モータースポーツ(レース・スノートライアル・ジムカーナ等の自動車技活動)を2000年頃から開始、現在も継続中。全日本選手権の参加経験あり。
2011年ロケ地の現地調査を本格的に開始する。
2015年リリースのCD『歌え!!トラック野郎』及びCD第2弾『帰ってきた!!トラック野郎』(ユニバーサルジャパン)のサウンドトラックディスクの選曲・掲載データ校正に従事。
2017年に新潟日報社がシリーズ5作目「度胸一番星」の40周年特集記事を掲載するにあたり、ロケ地アドバイザーとして同行協力したのを機に、同年トラック専門雑誌『カミオン』(芸文社)の協力を得て、大人の自由研究「トラック野郎ロケ地調査」として不定期特集を開始し現在に至る。

いかがだったでしょうか? 『トラック野郎』を巡る対談はとめどもなく続き、次回はそれぞれの専門領域のお話などを、よりディープにお届けする予定です。それまでは『トラック野郎 50年目の爆走讃歌』を読んでお待ちください!

リットーミュージックと立東舎の中の人

( ̄▼ ̄)ニヤッ インプレスグループの一員の出版社「リットーミュージック」と「立東舎」の中の人が、自社の書籍の愛を叫びます。

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