サザンオールスターズには詳しくないが、サザンほど、楽曲と思い出が合致する楽曲はないと思ってる。世にある、どの楽曲も、音色と詩を自身の経験とビートに重ねて没入するところに魅力があるし、何度もリフレインして心に「喜び」「癒やし」そして「痛み」を刻んでいくところに魅力がある。サザンの楽曲は、その度合いがとても強いと思っている。
サザンを聴いても「夏もビーチもイメージできない」
筆者はサザンのマニアではなく知識はド素人レベルであるため、ここでサザンを詳しく語ろうという思いはない。しかしながら、サザンに紐づけられた思い出があまりにも強烈なため、サザンを聴いても「夏もビーチもイメージできない」「ウェーイ♪ な楽曲でもウェーイ♪ な気分にならない」という不治の病にかかっていることを伝えたい。そして、同じような人がいるのではないかと、皆さんに聞いてみたい。
猛吹雪のなか新聞配達した思い出
中学生時代、東北地方で、サザンを聴きながら真冬に新聞配達をした影響により、サザンを聴いても「夏もビーチもイメージできない」「ウェーイ♪ な楽曲でもウェーイ♪ な気分にならない」のである。サザンが流れると、たとえ真夏でも「猛吹雪のなか新聞配達した思い出」「高熱が出ても休めず大雪のなか新聞配達した思い出」しか浮かばないのだ。
ちなみに『SOUTHERN ALL STARS』や『稲村ジェーン』あたりは、聴いても完全に真冬の新聞配達しか頭に浮かばない。猛吹雪のなか新聞配達した思い出が……。
サザンの偉大さを感じる
サザンの楽曲は素晴らしい。そんなことは誰もが知ってる事実。だがしかし、その素晴らしいメロディが脳内の「真冬の新聞配達」フィルターで濾過されてしまうので、おそらく、ピュアにサザンを楽しむことは一生できないのだろう。そう思うとちょっと悲しいが、ここまで人の思い出に深く入り込んでいるサザンの偉大さを感じるのだった。