「変わりゆく銀座のクラブ事情」【日テレ「おすぎとピーコの金持ちA様×貧乏B様」取材協力作品】

  by tomokihidachi  Tags :  

※「週刊新潮」にはかつて「クラブ欄」を書くネオン街記者がいた。私が世俗の男性たちに大いなる誤認をされ、分かる方々には評価された作品であったにも拘らず、悪評がついてまわることに腹立たしさもあった。
しかし2021年に創業45周年を迎える銀座のクラブの名高い老舗「クラブグレ」が内輪揉めしているとの近年の動向を捉えた同「週刊新潮」になんと光安久美子ママが山口さゆりという経理役員を担ってきたチーママに店を乗っ取られたという記事が載っていた。法的措置も辞さないなどとして、さらに民事訴訟で2500万円を要求するという。これは穏やかではない。

そこでかつて私が花売りおばちゃんからリキュールショップ、ABC店舗センター、ヘアサロン、ドレス専門店も含め、店の経営者や大物ママに至るまで、一人一人取材して駆け回っていた時の原稿を公式にはここで初めてアップロードすることにした。

【筆者スクリーンショット©️銀座の街写真ライブラリ】

【筆者スクリーンショット©️銀座クラブ・ロイヤルサルート】

シャネル、ルイ・ヴィトン、C・ディオール、カルティエ。名立たるブランド店がずらり立ち並ぶ、銀座並木通り。
ショーウィンドウの明かりが消え、シャッターの降りる午後八時になると、ネオンが灯り、銀座はにわかにもう一つの夜の顔を呈し始める。
道なりに次々横付けされるベンツの数々。ビルの正面口で表通りと腕時計とを身比べる、黒いスーツの男。タクシーから出迎えられる、夜会巻きのホステス。着物姿のマダムが楚々として急ぐ道の向い側で、色とりどりのスーツ姿で携帯電話片手に呼び込みをかけつつ道行く女たち。
 座っただけで五、六万。酒に美女と語らえば、数十万は下らない、銀座は花の高級クラブ街。
その一方で、この街は今、新たな時代の局面を迎えつつある。
街角の随所に目立つ、ビラを配って客寄せするキャバクラ嬢。腿の付け根まで切れ上がったスリットを強調させて歩く、フィリピーノの立ちんぼ。ニ、三十代のサラリーマンが、重役と言われる五、六十代と数を半分にして歩く通りで、「一時間六千円。いい娘揃ってますよ」と狙い定めて声をかける、長髪にスーツの男たち。
並木通りに面したカフェにふらりと立ち寄れば、先行き不安な状況に思案顔のクラブ経営者たち。
「銀座もかわりましたなぁ」がため息とともに聞こえる日常会話である。立ちんぼが現れたのはここ四、五年のこと。
並木通り以前にメインストリートと言われた外堀通りに目を向ければ、今やカラオケボックスができ、吉野屋、和民など表通りは飲食店が山と占める。
「クラブになど簡単に土地を貸すような街ではなかった。そこを我々は堂々と借りて商売している、という誇りをもってやってきた」とは、クラブ「ロイヤルサルート」の会長。銀座中央通りはザ・ギンザ資生堂ビルの地下に場所を移して二十年。今年で三十四年目の老舗である。
世界有数の高地価地だけに、体裁を重んじる街並みは規制も厳しく、かつてはかのマクドナルドをもってしても表通りに軒を並べることは叶わなかった。
「それが今やなんにでも貸す」との生っ粋の銀座紳士殿の嘆きも否めない。

 
バブル期に隆盛を極めた当時のクラブ地価は、ピーク時で坪一億。売買契約で店を始めるとなると、土地代のみならず内装費、什器・備品代から保険料となにからなにまで丸抱えせねばならず、これに女の子の支度金から男性スタッフの雇用金が上乗せという、目を剥くような資金が必要であった。
そこに「お酒さえ持ち込めば、明日からでもできる」をキャッチフレーズに、リースシステムで頭角を表わしたのが丸源ビルディングであった。十五、六年前から平均十二〜十五坪単位でワンフロアーを細切れに区切り、上から下まで三十〜七十もの内装完備した店鋪を、坪百万単価という破格の値で貸し出したのである。
時は好景気。銀座で店を持ちたいと願うものは日々増加の一途を辿るのに対し、店鋪数の比率が圧倒的に追い付かなかった時代である。我も我もとみな殺到した。
時は流れ、バブル崩壊後の今日。雑居ビルのネオンは約半分以上がその姿を消した。内装完備分を倍額の家賃で採算都合していた丸源ビルも、今や坪単価三十五万という地価三分の一に引き下げざるを得ない状況に、バブル崩壊前後の住居者にかかってくる家賃差が歴然となった。
「今は家賃が安くなった分、顧客は入りやすいのに、クラブ側の集客がなく、お店自体の維持が難しいというのが現状のようです」。とは銀座abe店舗センター。
ここ五年の契約率もキャバクラの方が高いという。
バブル崩壊から長引く不況が街に刻んだ影は色濃い。
薔薇を三輪ずつまとめた一束千円の花束を、いくつも抱えて道行く人に声をかける花売りも、かつての十人から五人へ減った。
「昔は五、六束くらいまとめて買っていってくれたもんだけどねぇ」。
妙齢の売りこ娘であったろう、今や花売りおばちゃんはこうこぼす。
石原裕次郎を初めとする、日活の俳優やスポーツ選手、著名人が銀座六〜八丁目を闊歩していた古きよき時代、目当てのホステスへ贈るちょっとしたプレゼントとして花は需要頻度が高かった。
「前は道きくのに買ってってくれたりしたもんだけど、今じゃ携帯電話ですぐ聞けちゃうしねぇ。不況とダブルパンチであたしら商売あがったりだよ。」
クラブの舞台裏を支える、周辺商売にも影響が出ているようだ。
ホステスを演出するのに欠かせない、華美なドレスやスーツを専門に売る店。某店主の表情も厳しい。
バブル期に単価三〜五万のきらびやかなドレスを買うのが主流だったホステスも、現在は九千八百円から三万にまで単価を下げた、シンプルなスーツをメインに、月二、三着のペースで買っていくという。
集客率もかつて七十%を占めたホステスが今や四十%。代わって主婦、音大生、各サークルの学生が、カラオケ教室からそれぞれの発表会用途に、一般客が上回っている。
回復の兆しが一向に見えない景気に、一般企業も接待費を削減し、クラブに足を運ぶのは、景気に左右されない著名人や、個人単位で資産家と言われる一握りの客層に限られるものとなった。
果たしてクラブは維持の時代へ突入したのである。
一口にクラブといえど、値段と売りと坪数、客層とで各々違う、銀座三千軒。とてもひとくくりにできるものではない。
今だ隆盛を極める高級クラブしかり、九時、十時台まで閑古鳥という現実もまたしかり。
いま不況の打撃を最も受けているのは、バブル期に増加した、十二〜十五坪の少数経営店である。カラオケをおいたスナック的なミニクラブだ。
昔ながらの酒屋が潰れ、代わって七、八年前から銀座に軒を並べるディスカウント・リカーショップ。配達の主流はこうしたミニクラブが占め、十時、十一時台になると、不足分を買いに走る女の子の姿も多く見かける。経費削減に走り、採算合わせに懸命な内情が伺える。
「高いはもう古い」と考えるママの声さえ聞こえる。体裁になど構っていられぬ様相だ。
では今だ世に聞こえる、華美なる銀座の高級クラブ。果たしてその値はどれほどのものか?

 銀座の金銭感覚

クラブは「箱」と呼ばれるビルの一室を借りて営業する。
坪数三十以上〜八十坪前後の大箱が、いわゆる高級クラブである。
一日二百五十万以上、月五千万の売り上げが店を維持する上での最低必要ライン。
ボトル代は平均三、四万。現在の主流はVSOPヘネシー、シーバスリーガル十二年熟成、オールドパーが名を列ねる。
ひと度席に座ってボトルを入れれば、自動的についてくるオードブル(調理品)、スティック(ポッキー類)、チャーム(乾きもの)と呼ばれるおつまみがひと皿、ニ、三千円。ミネラルウォーターが二千円に化ける世界。これにテーブルチャージ オールチャージ ボーイチャージ ホステスチャージ サービスチャージTC、AC、BC、HC、SCとついてたちまち十万、二十万を越える。
店は舞台。「係り」と呼ばれる女性が主役で、蝶ネクタイに黒スーツ姿の、「黒服」と呼ばれる男たちが黒子となってサポートする。
ホステスは大きく分けて「売り上げ」と「ヘルプ」の二種類。
「売り上げ」と呼ばれる女性は指名制の顧客を持ち、一卓を借りてどれだけ商売ができるか、ノルマで稼ぐ自営業の女性である。
「ヘルプ」は店側で決められた時給制。一日平均三万の保証額で「売り上げ」の女性をサポートする女性を指す。
月一千万近く売り上げ、五割の五百万をその取り分とする女性は、チーママ、ママクラスと言われる。
三十坪前後の中箱、少数経営のミニクラブと冠する箱は、オール制と呼ばれる。売り上げのホステスや雇われママを入れない限り、一日平均一万弱の保証金で、アルバイトを主力とし、高級クラブとは桁を異にする。
「グレ」「麻衣子」「ベルベ」「ドルフィン」。現在の銀座を代表する大箱、高級クラブ。ここでは不況などどこ吹く風。弾き語りのピアノ演奏をバックに、夜毎抜かれるドン・ぺリニョン、ロマネコンティの栓の数々に、一流紳士たちが酔いしれる。

  銀座のクラブはなにを売るか?
 
 
夜に限らず、銀座はあらゆる一級品がその価値を再認する地である。銀座とつけば、どの店であろうと確かな品をお届けできます、そういう誇りと信頼にこそ、「銀座」と冠する価値がある。
会長氏は言う。
「銀座のクラブは、オードブルを売る」と。
某クラブ経営者は、クラブは「夢」を売る場、だという。だがそれはあくまで店側の大義名分にすぎない。
「千疋屋ではなにを売る?憧れを売るわけじゃないだろう?」とは銀座界隈を遊び人で鳴らす某社長。
お客側の求めるものは、やはり「女」と「酒」なのだ。
自らの地位を確認する場所。銀座で飲むということは、人生の成功者たる証であり、銀座の顔になることにこそ本来のステータスがある。
現在の銀座で一流と賞されるクラブの一つ「グレ」。ネオンを灯して二十五年のオーナー、光安久美子ママは言う。
「無駄なお金を使うところが銀座。見返りを求める所じゃないのよね」。
世界でも類を見ないクラブという商売形態に、中途半端だ、フーゾクの方がマシだ、と陰口を叩く声もあるが、ギブ&テイクの規範に外れた、付加価値を求められる場所が銀座のクラブであった。

「クラブというものは、かつてエンターテインメントを提供する場所だった。ダンスホールがあり、生バンドが入り、パウダールームがあって、開店前は音合わせや、ダンスのレッスンをするホステスたち。その間を忙しなく行き来して取り仕切るマネージャー。そういう活気に溢れた光景があるところだった」。
かつてかの作家、松本清張に夜の銀座を案内したこともある、会長氏。語るは、高度経済成長期の世相に見合った、華美なる豪華クラブ全盛の時代。クラブ「ロイヤルサルート」の会長という肩書きにおよそ直結しない飄々たる風体、髪や口髭、顎髭に白いものが混じってはいるが、しゃんとした背筋から何より力強く張りのある声は、講談師のごとしである。
築地警察への正式登録はバァと、ステージを持つキャバレーの二種類。「クラブ」と名を冠したのも、昭和三十年代に入ってから。英国の社交クラブにちなみ、高級感を目指したものだという。
現在クラブの主流となっているのは、大正期はカフェ「プランタン」の走りにみる、女給が会話で接客する、バァ風の店。ママとホステスがお酒の相手をする、客席型中心のサービスである。
企業が始めた、時の豪華クラブは、音とダンスと客席の三位一体。女性の魅力をより引き出せ、接待の場であるとともに、女性との交流そのものを楽しむ、まさに社交場だったという。
「残念ながら、今やそういうクラブはひとつも残っていない」。とのこと。

【筆者スクリーンショット©️銀座クラブグレ】

創業二十五年のクラブ「グレ」。ベルベッド地でできたバラ色と琥珀のソファーを、二対一の比率で並べた、クラシック調で落ち着きある店内。会長氏言うところの、バァ風の経営をしてきたクラブであり、現在も政治家、財界人、著名人で賑わう、今もって衰えを知らぬ一流店。
「昔は女の子同士の競争意識が高かったし、プライベートな部分を一切出さないで演じる。まぁ、女優と同じですよね」。
ショートのパーマヘアに、胸にコサージュをつけたシンプルな白いスーツを品よく着こなす、薄化粧の久美子ママ。二拍子のリズムで扇子をあおぎながら、飾らない話ぶりに、人を圧倒する力強さを感じさせる。
「あの娘に負けたくないから、売り上げを伸ばしたいから、ってワインを頼んでもらったり。どこかそういう女性同士の競争意識を、お客様自身が楽しむようなところがありましたね。応援してやろう、と女の子に投資をしてくれて、育ててくれるお客様が多かった。粋というか。そういうところが銀座だと思うんですけどね」。

「自分を磨いて高く売りなさい」。
銀座のホステス哲学はこれに尽きた。お客様は「姫」や「高嶺の花」を求める。美容院で髪を毎日セットして、誰もが思わず振り返るような高い服を着なさい。お客様はあなたたちに会いに、高いお金を払ってくるのだから、それに応えられるように美しくしなさい。会話を楽しませるためには勉強も必要ですよ。新聞を読みなさい。 
才色兼備を目指す銀座のホステス。女性に内容があるからこそ、高級感があり、「育てよう」という銀座の粋があった。いわばクラブ側に、高額にも納得できる提供ができていたのである。

  
  なにが銀座を変えたか?

クラブ側が提供に目指すものと、お客側の求めるものとの格差の広がりが最大の要因である、と会長氏は見る。

  住む人がいることを考えない、機能特化された単なる盛り場は、誰のものでもなくなってしまい、その街の個性や
  魅力が失われてしまう
 
一九八九年に発刊された「銀座クラシック」で、効率主義の近代化されていく街を懸念する声が既にあがっていた。
IT時代と言われる昨今。世は効率・スピード第一主義である。無駄を省き、簡略化する時代の風潮か、夜の世界も端的に女・イロを求める、セックスに直結する遊びを、お客側が銀座のクラブに求め始めた。
「お客様の十人に一人は、女性自身を求めてきますね。できるだけお金をかけず、安く恋愛をしようという」。とは某支配人。
スナック的ミニクラブはより深刻だ。
「おそらく企業でも、クラブの状況が今どうなっているのか、話に出たりするんでしょうね。こちらが工面に苦しいことを承知で値切ってくる」。
経営者の心労は重そうだ。
 ロイヤルサルートの会長は語る。
「クラブというのは常に受け身であり、銀座は信用という名の、お客さまの『顔』で支払ってきた」。
 かつてお金は、店側にもお客側にもたいしたことではなく、お客が請求書を要求しない限り、クラブは支払いに消極的であったという。たとえクラブが断ろうと、お客側からお金を差し出される、古きよき時代があった。
接待費流用時代の、法人で飲める酒席。社用族の天下であった好景気の世相という要因は大きかろう。
 「今や一日でも早く、一円でも多く採算を取るため、単価を引き下げ、経費削減に走っている」。
体裁が全ての虚飾の世界。手間ひまをかけてこその高級クラブ。内装の調度品に、什器・備品に一流のものを揃えるからこそ、ただのお酒が十倍額の高級酒となり、容姿に金額をかけた美女との会話ゆえに、高くて当然なのがクラブであった。
果たしてオードブルを売るはずの銀座でメインディッシュが求められ、高額をかけてこそのクラブで安く済ませようとする現実がここにある。支払った分、見返りを求めて当然という考えが横行し、得られないならさらに安い六本木、得るものが確実なフーゾクへ行った方がマシ、とかける秤の違ったはずのものが同じ壇上に立たされている。
なんたる変わりよう、会長殿は遠い目をする。

【筆者スクリーンショット©️銀座クラブ順子〔PRESIDENT]】

「今の子は既に裕福な暮らしをしていて、より優雅さを求めてクラブへ働きに来るんですよ」。とはクラブ「順子」の田村順子ママ。
十三,五坪の敷地ながら、大箱の高級クラブにひけをとらぬ三十五年目の老舗である。銀座最年少ママと騒がれた過去も今や遠い昔。近年「女帝」「銀座女帝伝説 順子」など、マンガ分野で活躍を続ける。そのパワーは衰えるところを知らない。
ブランド品が欲しい、高級車に乗りたいなど、例外はあれど、生活面で切迫していない時代に生きている女性が主流の現代。働く目的も変わり、上下関係の軋轢、競争意識も少ないと聞く。
「女工哀史」に見る野麦峠のイメージ。今や戦後クラブ史の語り部たる会長氏は、かつてのホステスをそう表現する。金持ちと貧乏人の階級差が歴然としていた時代。親元を離れ、有無を言わさず日夜重労働に明け暮れねばならなかった女工にはどこか物悲しさがつきまとう。身売りにも似た、悲哀を秘めた女性との解釈、ホステス。
みなが生きるため、横一線に必死で働いた高度経済成長期。女性の社会進出は、未だ開拓途上にあった。
時代は流れ、キャリアウーマンが台頭し、女性が仕事と家庭の両立をするのが当たり前となった現代。女は生き方を選べるようになった。
「フリーターで、ずっとこのままでいいのかなって思ってた時に、(ホステス)やってみないかって話があって」。と某有名店のホステス。
一般女性がホステス化したと言われる世相に、プロ意識の低下が指摘される。
「プロと素人の境界線がなくなった。これじゃ、アルバイト雇った方がいいくらいよ」とは、とあるミニクラブのママ。
 また某店長も口を濁す。
「安直な下ネタ関係に会話がすぐ流れてしまう」。
 かつてに比べ、私服で出勤して、お店で着替える女性も増えた。

【筆者スクリーンショット©️銀座クラブクラブベルべ】

【筆者スクリーンショット©️シャンパンタワー画像】

「休まない、遅刻しない、トイレを使ったらきちんと後をきれいにしなさい。もう、子供に言うようなことを言ってますよ」。とは隆盛を極めるクラブ「ベルべ」の高木久子ママ。
銀座の水に入ってわずか一年でオーナーママとなった、姐御肌で切符のいい豪快さがある。シルク素材の黒いロングドレス。襟元の透け具合に銀座の色香が薫る、酒場の女主人。
「まずお店に儲けさせてから、自分の取り分を取る、というのがホステス。売り上げゼロでもいいから、伸ばす努力をしなさい」。
鼻筋の通ったおもて面に、意志の強そうな眼差しで女の子たちに語りかける。
久子ママをチーママとして雇っていた、「グレ」の久美子ママの教育は
「欲を出しなさい」。
物資過剰社会でハングリー精神に欠ける女性が生きている時代。支払い分だけ元を取ろうと、ガツガツしているのはむしろ、利用客の方である。

久美子ママはミーティング時、日経新聞のコラムをコピーして配り、ホステス一人一人に意見を求めたという。
高級クラブとして名を成す有名店には、今もってそれぞれの銀座哲学が生きている。

  新しい在り方

かつて街頭で道ゆく女性をキャッチするスカウトは、今に比べてはるかにやりやすいものであったという。一流店とその他の店との差が歴然としていたためだ。名のある有名店で働くことは、女性側にもステータスであった。
今ではホステスの絶対数も減り、才色兼備の女の子が揃う店の比率も低下した。
お客側の求める志向も若く美しい娘との恋愛へと移行し、クラブ側も不況に対応して料金システムに軌道修正を行い、新たな客層を掴んだ経営を展開している例もある。
体面と内容はクラブ、料金システムだけは六本木のキャバクラシステムを取り入れた、クラブ「なが夜」。正統派のクラブで、「グレ」と年数を並べるクラブ「KAJI」の姉妹店である。
キャバクラの料金システムとはすなわち時間制。三十分、もしくは一時間毎に単価を上げていく採算の取り方だ。クラブに見られる「売り上げ」のように、女性に身分やノルマはない。クラブほど高額ではないが、支払いは実力主義のバック制。同伴バック、指名バック、ドリンクバックなど、全ての面で貢献すればした分だけ、即結果に結びつく。誰にでも開かれた門戸に女性も集まりやすく、ノルマがない分働きやすい。
「お客様の支払いは現金とカードがメインなので、即お店の収入となり、クラブの売り掛け金制度で入金まで二ヶ月も宙に浮いた状態という、実際採算の取れない、何ヶ月かの空白の状況を防げます」。と支配人。
同系統のクラブを出し、お客側に通う店を増やして財布を疲弊させるよりは、違う客筋を掴んだ方がいいとの戦略であろう。
クラブ業界はいかに採算を取るかが主体という現状である。
スカウトマンを置かないミニクラブの中には、毎週募集広告を出し、若くてきれいな娘を数で揃えるように対応している店もある。
並木通りの街角に、連夜自らの名刺をもって道ゆくサラリーマンに声をかける、着物姿のママがいる。
「すごいね。ああまでできない」。
同程度のクラブ経営者はため息をもらす。そういうやり方をしてこなかったからなぁ。
従来、銀座のクラブは受け身である。不況風に閑古鳥が鳴こうと、お客に電話で呼び込みをかけても、表まで出てビラを配る性格はない。ただ待つばかりである。
雑居ビルと言われる丸源ビル内の細切れされた箱の幸先は見えない。名の通った店、知る人ぞ知るママやホステスがいてこそ客足が集まる銀座のクラブ。果たして表から中の状況がなにも見えず、誰も知った顔のない場所になど誰が足を運ぶだろうか。ゆえに下落を続ける賃貸状況。
かくて一九九六年(平成八年)の「アールズカフェ」を皮切りに、銀座にキャバクラが大挙した。バブル崩壊から約五年後のことである。
広島から「オルフェオ」、「マティオ」系列店が銀座入りし、一年後の九七年には銀座の高級クラブとしての経営が行き詰まったクラブ「ル・シェンテ」が閉店後三ヶ月でキャバクラとして再出発。立川など銀座外から続々とキャバクラ新風が吹き込み、公然とビラ配りが始められ、外国人の立ちんぼが現れ、「ルナージュ」「ティアドロップ」なる店舗も合わせて現在、銀座にキャバクラは約十五軒にも上る。
クラブ畑の銀座から、銀座のクラブとキャバクラで学んだという店長が始めた、銀座発信のキャバクラ「エモーション」が開店、今年で三年目を迎える。
「自分がカリスマとなるように目指す、経営体制」。
オーナーママならぬ、オーナーパパの酒井誠店長が語る、独自の経営論は新しい世代の到来を感じさせる。
「売り上げのホステス、雇われママが抜けることによって、店の経営が傾くクラブ経営は不安定なもの。それに左右されない経営を、と考えて自分という人間性と信念とをスタッフに理解してもらおう、と」。
不況に対応した変動型の時給制。毎日の売り上げ次第で日々給与が異なり、店全体の売り上げが悪い時は全員の給料も減俸する。それでも女の子がやめないように、自己にカリスマ性を持たせるという。

 

メゾンエルメス、バーバリー銀座店、ルイ・ヴィトンショップ。
いま大手海外ブランドは、次々銀座へその進出を果たしている。それも有名建築家をしての設計。銀座は一部で現代建築のメッカとなりつつある。

 銀座という街には、元来進取の気性と言うものがある。新しいものをどんどん受け入れていくバイタリティ。
 「伝統的な街」を売り物にしているが、実は既にステータスを確立した伝統的な商品を、外から持ってきて銀座で売
 っている。銀座というのは外部からの新参者によって作られてきた街なのである。

昼の銀座哲学は夜にも応用可能である。
大正期はカフェの女給から、銀座に新しい血を入れてきたのは常に外部からの新風だった。カフェ「ライオン」が隆盛を極めていた頃、大挙してきたのは女とエロを全面に押し出した大阪資本産業によるカフェ「タイガァ」であった。ママのカリスマで売るバァ「エスポワール」。話題性を作ったのは、京都から東京に店を出した「おそめ」であった。豪華クラブの先駆者となった本間興業ははるばる北海道から風を吹きこみ、その後銀座のクラブにホステスの引き抜き合戦なる、スカウト競争を激化させた「花」の庄司宗信氏をもってしても、もともとは富山県の市役所職員からのたたきあげ。
銀座は昼も夜も、時代に対応して形態を変え、新たな文化を常に生み出せる街なのである。
もし銀座という街が、あくまで成熟した大人だけを受け入れる、高級であることに意味がある閉ざされた街なら、そのステータスは今まさに崩れゆきつつある。
だが、と私は二の句を告げる。

かつて寿司は、その高級さゆえに格調高い、庶民の手には届かぬ憧れだった。
回転寿司が世に出たのは約三十年前。当初まがい物のごとく扱われ、非難囂々の雨嵐であった。
今や独自の客層を掴み、爆発的に増加。売り上げ競争に連日しのぎを削る回転寿司業界は、完全にその地位を確立した。
果たして回転寿司は寿司の価値を貶めたか?

時代とともに変わりゆく街並みと尺度。古き良き時代の面影を残していくところは残していくし、今も隆盛を極めるところも現実で、同時に採算合わせに血眼になっているのも現実である。ただひとつ言えるのは、一つの時代が終わりを告げようとしている。
時代とともにそこに生きている人間が変わり、銀座は新たな時代を迎える。

【あとがきにかえて】
   もう19年も前になるだろうか。私は在学中、文学を専攻していた。当時、まだ健常者だった私は、足を使って街中を走り回り、汗だくになりながら書き上げた作品になる。 
  大学1年次は机にかじりついて芸術学や美学を学ぶ机上の勉強を必死にこなしたが、ある時期このままでは社会に通用する即戦力にはなれないだろうと思い至った。結果、大学2年次からアルバイトを週4〜5で朝晩と遅番でこなし、中抜けで通学して移動中に課題をこなして取材経費を貯めて同時に体力も付けようと必死に働き、 取材経費初期費用生活費プラス35万を捻出して乗馬クラブの研修生として泊り込みで働きながら、ルポの処女作を書いた。乗馬クラブというと「お嬢様」など金持ちのイメージがあるが、働く側に回ってみれば、工事現場で使う三輪車を転がしたり、片手で40kgある馬の餌袋を持ち上げられなければ話にならない、正真正銘の肉体労働だ。ここでノンフィクションの面白さに触れ、思い切って、ファンタジー作家からノンフィクションの世界にも足を踏み入れてみようと決意する。

  だが、取材を通してセクハラに悩み、女性として「女」を武器にしながらも、簡単には寝取られない、セクハラを交わすという技術を身につけた女性のいる世界とはなんだろうと真剣に考えた。
  この頃まで無学だった私は、「馬の世界」しか知らず、それは「銀座のクラブ」の女性なのではないかと直感した。
  これを機に乗馬クラブのルポの時のような泊まり込みの密着取材ではなく、街中を走り回って汗だくになりながら、聞き込みする取材力を磨き始める。当初、周辺取材でなかなか事情通に出会えなかった私は「潜入取材」を思いつき、実際黒服の男にその旨を伝えてなんとか銀座の女性たちの端緒をつかもうと洞察に通った。だが、この潜入取材では、何ら手がかりは得られなかった。
 しかし、「潜入取材」という行動に出たことによって活路が開かれる。それは某誌のネオン街記者との出会いだった。
 私が地道に周辺取材と潜入取材をしているという経緯を聞いて、この記者の方はある人物を紹介してくださった。
  
それはロイヤルサルートの会長だった。私は氏との出会いで、
 「なぜ御仁は私が汗だくになって街中走り回って情報をかき集めているのに、かような雑居房でうず高く本が積まれた部屋で電話して読書しているだけなのに、なぜ私より銀座の事情に詳しいのか?」悔しくて本を大量に買った。そしてまた話すと「デリバティブ」などというわけのわからない単語を仰る。会長殿の頭の中に詰まっている話を取材して聞くうち、社会情勢と経済の金回りという図式がまるで隕石のように降ってきて、私の脳天から足元まで貫くほどの衝撃を覚えた。この頃から必死で本を読むようになり、情報はただ足でかき集めればいいというわけじゃないのだという気づきがあった。

氏の取材を通して、純粋な私は、「この人はこの銀座という街の衰退を嘆いている。本当は誰よりこの銀座という街を愛しているはずなのに、かつての栄華をもの寂しく思っているのだ。ならば、私が銀座の実態を伝え、この街の栄枯盛衰をノンフィクションという形で無償で伝えてあげたい。」

 そう思ってさらに取材を推し進めた。私は氏とお茶飲み友達になり、取材の経過報告をして当時の学業でもあり、今後につながるライターの仕事としてもアマチュアながら、プロを意識して雑談の中から「経済の年表を書いて取材して集めた材料と照らし合わせる必要性があるかもしれない。」と直感した。

転機がきたのはある黒服の幹部の方が、私が銀座の片隅にある昭和を匂わせる「白いバラ」というキャバレーの内部を取材した後だった。
 「君が学生で、こんなにもこの銀座という街を情熱を持って取材して回っているなら、このクラブの現状を見せてあげたい。」
 
そう言って、携帯を取り出してクラブの常連客の一人を呼び出した。すると、常連客のポケットマネーでクラブの梯子遊びをする光景に同行取材させてもらえるという。
 驚いたのは、その黒服の幹部の方が銀座のクラブ街を歩く度に街中に立っている黒服の男たちが次々に頭を垂れて「ご苦労様です!」と道を退くのだ。私は同行取材しただけだが、なぜか活路が開けて堂々と道の真ん中を歩くことができ、悪い気はしなかった。
 この作品の要の部分をまとめることができたのも、この幹部の方のおかげだ。おそらく完成は難しかったかもしれない。
 これをついに書き上げた当時の私は、すでに「社会派のノンフィクション」の書き手になることを決めていた。
 もちろん時々、フィクションの短編も書くし、全てがノンフィクションやルポではないことを断っておく。

 この取材を通じて強調しておきたいのは、男性の目から見る「銀座の女性」と女性の目から見る「銀座の女性」像は全く違うということだ。銀座の女性で軽々に寝取られる女はまず、一流ではない。店にお金を落とす顧客を店から遠ざけるだけだからだ。私の知りえた数少ない成功者になったホステスの女性は、大箱には在籍していなかったが、ソムリエになって店を出すという明確な目的があった。彼女は、自分の実入りだけでは立ち入れない、三ツ星レストランの味を「同伴」をすることでお客さんのお金で自分の舌に覚えこませていた。決して「アフター」はしなかった。
 また、私がこの街を取材する最初の動機となった、セクハラについては、この作品の後に書き上げた「報道二次被害」をテーマとする作品の取材で、出張取材した時に最初はセクハラ的な発言を繰り返していたある取材協力者の方が、途中から、私の全く意に介さず、議論ばかりぶつけてくる熱意を認め、「この子はきちんと扱わなくてはならない子なんだ」と態度が紳士的なものに豹変した経験があり、なんて小さな問題で悩んでいたことか。と自分の人間としての未熟さと解決策を意図せず副産物として気づくことができた。
 この作品のおかげで某誌とも縁が生まれ、日本テレビさんのお仕事にも関わらせていただいた。遅ればせながら全ての関係者に感謝の念を表したい。
 
 きっかけは些細なことだったかもしれない。だが 銀座に来なければ、無学な私がこの世に動乱する「社会情勢」があるという存在に気づくことは決してなかった。また、これを機に社会派へ転向していなかったら、この後に書いたバリバリの正統派ジャーナリズムの作品で、多くのジャーナリストの方たちとの出会いもなかったことだろう。また社会に出てから目指し始めた「国際情勢」という光に溢れた世界を今のように追う自分も決して存在しなかったはずだ。
  この銀座という街を私が再び取材することはおそらくもうないだろうが、銀座の女性たちの中でも早稲田大学で教鞭をとるママや、筆談ホステスから市議会議員になった女性の社会進出も目立つ世相になった。くれぐれも男性が抱く「いやらしい女性像」という古臭いイメージは捨て去って欲しいものだ。

tomokihidachi

2003年、日芸文芸学科卒業。マガジンハウス「ダ・カーポ」編集部フリー契約ライター。編プロで書籍の編集職にも関わり、Devex.Japan、「国際開発ジャーナル」で記事を発表。本に関するWEBニュースサイト「ビーカイブ」から本格的にジャーナリズムの実績を積む。この他、TBS報道局CGルーム提携企業や(株)共同テレビジョン映像取材部に勤務した。個人で新潟中越大震災取材や3.11の2週間後にボランティアとして福島に現地入り。現在は市民ライター(種々雑多な副業と兼業)として執筆しながら21年目の闘病中。(株)「ログミー」編集部やクラウドソーシング系のフリー単発案件、NPO地域精神保健機構COMHBOで「コンボライター」の実績もある。(財)日本国際問題研究所「軍縮・科学技術センター」令和元年「軍縮・不拡散」合宿講座認定証取得。目下プログラミングの研修を控え体調調整しながら多くの案件にアプライ中。時代を鋭く抉る社会派作家志望!無数の不採用通知に負けず職業を選ばず様々な仕事をこなしながら書き続け、35年かけプロの作家になったノリーンエアズを敬愛。

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