いよいよ発売となった書籍『押井守の映画50年50本』。本書では、SF小説に夢中だった押井青年がスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』と出会う1968年から始まって、2017年度のアカデミー受賞作『シェイプ・オブ・ウォーター』までの50年50(+1)本を語っていただきました。今回は出版を記念して、「2018年の1本」を語っていただきます。ぜひご高覧ください!!
映画を支える女優エミリー・ブラント
----書籍『押井守の映画50年50本』で、押井監督が「2015年の1本」として選んだ『ボーダーライン』につづくエミリー・ブラント主演作です。
押井: 僕はエミリー・ブラントが大好きなので、映画館に見に行った。内容の詳細を知らずに、エミリー・ブラントを見たいという理由だけで映画館に行ったんだよ。見てみたら、意外に面白かった。意外に、というか、かなり感心した。音に反応して襲いかかってくる宇宙人……宇宙人というかモンスターなんだけど、そのモンスターの群れが襲来したせいで終末と化してしまった世界のお話。アメリカの田舎を舞台にしていて、設定的にはSFの要素があるんだけど、やっていることは文芸映画なんだよ。僕が作ってみたいといつも思っている映画の理想に近かった。だから感心した。エミリー・ブラントの旦那が劇中でも旦那を演じていて、監督もしているんだけど、ディテールを詰めていく演出の手際もよかった。ただ、エミリー・ブラントがショットガンをぶっ放すラストだけは、いただけなかった。あれさえなければ大傑作なのに、せっかくの雰囲気がブチ壊しだよ。
--オリジナル脚本では、ショットガンは使わないんですよね。
押井: この映画は『トランスフォーマー』(07)のマイケル・ベイがプロデュースしているんだけど、ラストでいきなりマイケル・ベイ映画になっちゃった。この話は書籍版でもしたけど、プロデューサーに「アクションをやれ」と要求されたんだと思うよ。だってさ、あまりに唐突すぎるもん。
--調べてみたら、本当にプロデューサーの要求でした。
押井: やっぱり。
--文学部出身で、娯楽映画を見ずに真面目に育ったジョン・クラシンスキー監督は、アクションシーンを挿れることにかなり抵抗したらしいのですが、車を運転しながらスティーヴン・スピルバーグの発言集を聴き返していたら、「最後に盛り上がるアート映画があってもいい」という言葉が出てきて、それで「アクションをやってもいいんだ」という確信を得たそうです。
押井: それは、スピルバーグの悪い部分の影響を受けちゃっているよ。スピルバーグの話は次回もするけどさ、商業主義的な要請は、蛇足になっちゃうんだよね。もちろん商業的なバランスも取らないといけないんだけど、映画の本来あるべき姿も守らないといけない。監督としてその一線を守らないと、大きな魚を釣り落とす。僕は、商業的な要請を無視して自分の思いどおりにやっちゃった映画も多いので、実体験としてよく分かるんだけど。プロデューサーに要求されるがままに作ったとして、それでどうにかなっただろうかと考えると、それはそれで次が撮れない監督にしかならなかったと思う。映画が本質的に求めている部分と、商業的な要請をどう一致させていくか。むずかしいんだよね。
--エミリー・ブラントの主演映画としては?
押井: 文句ないよ。ただ、なにもこんな状況で赤ん坊を作らなくてもいいだろうに、とは思ったけど。泣き声が漏れないように、茶箱みたいなところに赤ん坊を押し込むんだけどさ。「本当にこんな箱に入れて育てるつもりなの?」と心配しちゃうよね。でも、こういう状況でも子どもを産もうとする強い女性なんだろうなと納得できる。芯の強い女性を演じさせたら、エミリー・ブラントはピッタリだと思うよ。トム・クルーズと共演した『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(14)がそうだったし、『ボーダーライン』では泣いたりわめいたり、ベニシオ・デル・トロに撃たれたり、酷い目に遭うんだけど、ベニシオ・デル・トロではなく、エミリー・ブラントが主人公の映画になっている。求心力がある役者なんだよ。これが男優であれば、歳をとって、ある程度の渋さを備えれば、誰でもそれなりに主演を張れるんだけど、いまの女優で、ここまで求心力を持っている人はいないんじゃないかな。依代(よりしろ)って言ったら言い過ぎだけど、テーマを背負える役者をキャスティングできるかが、映画の勝負になる。脚本がよく書けていて、構造がガッチリしている映画は、それはそれで素晴らしいんだけど、その素晴らしさを実体化できる役者が真ん中にいるかどうか。エミリー・ブラントは、映画を支える太い幹になれる女優なんだよね。
キッドマンやセロンにはない、エミリー・ブラントの魅力
--押井監督は、ニコール・キッドマンもお気に入りですよね?
押井: ニコール・キッドマンも、強い女性をめざしていた時期があったけど、そっちにいかなかったよね。やりたかった気配は濃厚に漂っていた。ヒュー・ジャックマンと共演して、オーストラリアの開拓史を描く『オーストラリア』(09)とかね。オーストラリアのド根性女をやろうとしたんだけど、美人であることが仇(あだ)となった。美人すぎると、強さが出ない。冴え渡るような美人だと、線の細さが出ちゃうんだよ。
--シャーリーズ・セロンも強い女性を演じることが多いですが?
押井: シャーリーズ・セロンも、エミリー・ブラントとはちょっとちがう。連続殺人鬼を演じた『モンスター』(03)という映画で、ブヨブヨに変貌して、なんでも演じることを証明してみせたけど、なんでも演じることができるがゆえに、常にシャーリーズ・セロンになってしまう。過酷な状況でサバイバルする女性を演じることが多いんだけど、美人すぎて、どうしてもゴージャスさが出てしまう。シャーリーズ・セロンは、ゴージャスな女性なんだよね。日常生活が似合わない。『クワイエット・プレイス』は、生活のディテールがとにかく細かい。物をどうやって調達するか? どうやって音を立てずに生活するか? エミリー・ブラントは日常生活が似合うんだよ。それでいて、ショットガンを構えた姿も、さまになる。ショットガンを構えさせたくなる理由も分かるよ。
--エミリー・ブラントは、タイムトラベル映画の『LOOPER/ルーパー』(12)でもショットガンを構えていました。
押井: 映画の顔になることができて、ショットガンを構えてさまになる女優が日本にいるだろうか。ずっと探しているんだけどさ、いないと思うんだよね。僕の映画でいうと『東京無国籍少女』(15)の清野菜名は、人を殺しそうな目をしているから感心したんだけど、ショットガンは似合わないから、自動小銃のAKにした。『THE NEXT GENERATION パトレイバー』(14-15)のカーシャ(太田莉菜)もAKどまりで、ショットガンは振り回せない。
--『あぶない刑事』(86-87)の木の実ナナさんは、ショットガンを構えていましたね。
押井: それね。冗談じゃなくて、素地はあったね。素地はあったけど、つづかなかった。
--天海祐希さんは?
押井: 天海祐希さんは、劇団☆新感線の舞台を見に行ったときに、楽屋でお会いしたことがある。すっぴんで、眼鏡をしていたんだけど、すぐ御本人だと分かった。すっぴんでもオーラが出ちゃっているんだよ。スゴかったよ。やっぱりタカラジェンヌだなと思ったもん。ひらたく言っちゃうと、いざとなったらショットガンをぶっ放す泥臭さが、天海さんにはない。『クワイエット・プレイス』のお話自体は、日本でもやれそうなお話なんだよ。田舎で撮ればいいだけだから。苔むしたような田舎じゃなくて、程よい田舎を舞台にすればいい。それこそ熱海で撮ってもいいくらい。だけど、日本にはエミリー・ブラントがいない。そこでつまずく。まずキャスティングでつまずくよね。そして子役もいない。
--この映画の子役は、素晴らしかったですね。
押井: 本当に耳が聴こえない子をキャスティングしたんだと知って、なるほどなと思ったけど、下の子に似てないんだよね。最初は「連れ子なのかな?」と思いながら見ていた。エミリー・ブラントが産んだ子じゃなくて、旦那のほうの連れ子なのかなと。もちろん、自分のせいで下の子がモンスターに食われちゃったと思っているから、そのせいで孤立しちゃっているし、耳が聴こえないという理由もあるんだけど、自分のほうから家族を疎外しちゃっているよね。その疎外が克服される話。その一言に尽きるんじゃないかな。その長女の孤立感とは別に、家族がもう1人ふえるという状況が同時進行していて、映画のテーマが家族であるのは間違いない。
親子を描く映画
--オリジナル脚本を書いたブライアン・ウッズとスコット・ベックのコンビは、アイオワ大学の同級生で、言葉を使わずにコミュニケーションする方法という授業を受けつつ、ワールドシネマの授業でジャック・タチの『ぼくの伯父さん』(58)や『プレイタイム』(59)を見て、本作を着想したそうです。
押井: 台詞メインではなく映像で語っていく映画と手話を組み合わせればいいと思ったわけね。なるほどね。むこうの若者は、スゴいね。『レザボア・ドッグス』(92)のクエンティン・タランティーノもそうだったけど、若者にパワーがあるよね。それを実現させてくれるアメリカというかハリウッドの底力も感じるね。
--脚本をパラマントが買って、主演候補としてジョン・クラシンスキーのところにその脚本が届いて、妻が第2子を妊娠中だったクラシンスキーは、父親としての不安を投影して、自分が監督するつもりで脚本を全面的に書き換えた。それが本作の経緯です。
押井: 実体験を生かした父親像になっているんだね。
--エミリー・ブラントとジョン・クラシンスキーの子どもは、上の子も下の子も、娘です。
押井: 親子の不和がテーマになっている映画は、昔から綿々とあるんだけどさ。ジェームズ・ディーンが主演した『エデンの東』(55)とかね。親子で終末後の世界をサバイバルする映画も、けっこうある。ヴィゴ・モーテンセンが父親役を演じた『ザ・ロード』(09)とかね。
--『ザ・ロード』は、『ノーカントリー』(07)と同じ原作者です。
押井: 『ザ・ロード』は救いのない、ひたすらしんどい映画なんだけどさ。『エデンの東』も『ザ・ロード』も、父と息子の話なんだよね。父と娘の話は珍しいと思った。あったとしても、『チャイナタウン』(74)のフェイ・ダナウェイのような、近親相姦的な因果の話になってしまう。この映画はそうじゃないから。愛されていないと思っている娘がいて、最後に父親が娘を守るために手話で「愛しているよ」と告げる。ヴィゴ・モーテンセンの『ザ・ロード』は、サバイバルの過酷さとか親子の絆から出発しているんだけど、この映画は、絆の確認に行きつくまでのお話になっている。絆を確認したときには死ぬしかない。本当にいいと思った。よかっただけに、ラストのアクションで傑作になり損ねてしまった。他人事ながら悔しいなと思った。編集し直したいくらいだよ。
異常と日常
押井: いつも言っているけど、映画を見ているときは、成立しなかったもう1本の映画を夢想する。ラストのショットガンは要らないし、もっと言ってしまえば、モンスターが出てくる必要すらなかったと思っている。姿を見せる必要がどこにあるの? ヒュンヒュンと影がよぎるとかね、そういう表現はいいと思うんだけど。気がつかれたら死ぬしかない、そういうお話なんだから、モンスターは出さないほうがいい。そのほうがよっぽどサスペンスが盛り上がると思うんだけど。モンスターを見せすぎちゃったことで、そしてショットガンのアクションをやってしまったことで、ほかの映画と同じになってしまった。SF的な設定を使って、心理サスペンスをやるってのは、実はいちばんの王道なんだよ。サー(リドリー・スコット)の『エイリアン』(79)だって、見えないものと闘う、見えたときはオシマイだっていう映画でしょ? エイリアンの全身が出てくるのは、最後の最後だけだからね。
--エイリアンの着ぐるみの造形が、ちゃちだから最後の最後まで見せたくないという主旨で作った映画が『エイリアン』だと思っていました。
押井: 『エイリアン』は、サーが余計なことは一切やらないという主旨を貫徹させた映画だよ。余計なことをやるから、みんな失敗するし、ことごとく破綻する。過不足なく映画を作ることが、いかにむずかしいかということなんだよね。設定は、荒唐無稽でいいんだよ。宇宙人だろうが、モンスターだろうが、巨人や怪獣を出してもいいんだよ。異常な状況は、異常な状況でいいんだけど、日常まで異常にしてしまったら、日常が絵空事になってしまう。日常生活の描写でこそ映画のリアリティを支えるべきだから。どの映画とは言わないけど、失敗してしまっている映画が多い。『クワイエット・プレイス』は、家族の話を軸にして、日常生活がシッカリしている。だから本当に感心したし、SF映画で文芸っぽいことをやりたいなと僕も常に考えている。『クワイエット・プレイス』のような映画を日本で成立させることは、キャスティングの問題さえクリアできれば、不可能ではない。『アサルトガールズ』(09)を大島で撮って、バトルスーツを着せて、ファンタジー方向に振れば、ある程度まで行けることは分かった。これを長尺にするとなると、やっぱり日本では無理だったから、カナダに行くしかなかった。
--2016年に日本で公開された『ガルム・ウォーズ』ですね。
押井: 世間でどう思われているのかは知らないけれど、いろいろ試しているんだよ。『東京無国籍少女』では、舞台を学校に限定することで、架空の日常を描いてみせた。『クワイエット・プレイス』のような、田舎を舞台にして、日常ベースの、SFっぽい文芸映画を日本で作れるかどうか。誰か作ってくれないかなと思うし、できれば自分で実現させたい。SFって言うと、いまはみんなアクション映画とイコールになっちゃっているけど、僕はオールドSFファンなので、『渚にて』(59)のような物語が大好きなんだよ。『渚にて』は、第三次世界大戦が勃発して最後の原潜が出港するというだけの映画なんだけど、アクションなんてないからね。設定はSFだけど、中身は純然たる文芸映画。『渚にて』を例に挙げたのは、別に懐古趣味じゃなくて、そういう物語がいちばん映画にハマると確信しているからなんだよ。実際『クワイエット・プレイス』がそう。ただ、純然たる文芸を見せられてもね、それはそれでちょっと鼻白むわけだけど。『戦争と平和』(56)とかね。最近だと『レ・ミゼラブル』(12)とか『アンナ・カレーニナ』(12)とかあったけどさ。あそこまで堂々と文芸映画をやられちゃうと、ちょっと困るよね。映画としては、もっとヤクザな部分というのかな、駄菓子屋っぽさがあっていいと思っているし、堂々たる芸術であるよりは、もうちょっと卑近なところがあっていいと思っている。『クワイエット・プレイス』はいいところまで行っているので、日本で映画を作っている人たちの参考になると思うし、僕もこういう映画を撮ってみたい。本当にそう思うよ。
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いかがでしたでしょうか? 書籍『押井守の映画50年50本』では、1968年から2017年までの50(+1)本が語られています。押井監督ならではの視点で選ばれ、解析された50(+1)本を、ぜひご堪能ください。
著者:押井守
定価:本体2,200円+税
発行:立東舎PROFILE 押井守
映画監督。1951年生まれ、東京都出身。1977年、竜の子プロダクション(現:タツノコプロ)に入社。スタジオぴえろ(現:ぴえろ)を経てフリーに。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(84)、『機動警察パトレイバー』シリーズ(88〜93)、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(95)、『アヴァロン』(01)、『立喰師列伝』(06)、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(09)、『THE NEXT GENERATION パトレイバー』シリーズ(14〜15)、『ガルム・ウォーズ』(16)などを手がける。