先週、米倉涼子を絶賛する日本のマスコミへの批判記事を書いた後、現地調査じゃないけれど実際『シカゴ』が公演されている劇場の前まで行ってみた。米倉涼子の大きな写真も劇場に貼り出されて、厳しく批判はしたものの米倉涼子のポスターの出現には正直嬉しかった。
ブロードウェイを下りながら、8月下旬でもまだ残暑の残るタイムス・スクエアーを歩くと観光客が露出度の高いいでたちで、フワフワと歩いている。
歩行者天国になっている場所に足を失くした男性が紙コップを置いたまま座り込んでいるが、無残にも人は通りすぎている。その無残な人々の中の1人であった私だ。
観光客の遅い速度の人たちを自然に追い越して、ひょいと横に曲がり少しは人のカタマリが崩れた通りには、左頬全体がソフトボール大に腫上がっている人が立ったままでやはり”募金”をしていた。
なんとも世の中は不公平なのだと思った。不公平は世の中どこにでもある。但し、この不公平の様々が見られるのは大都会が特に多いと思う。
平均的に暮らすことが出来るのは、今の時代とても難しいことかもしれない。普通が貴重なのである。
そんなことを考えながら朝を迎えた。窓から見える朝焼けが美しかった。日曜朝、6時過ぎ、舗道を見下ろすと犬の散歩をする人、ジョギングをする人と朝早くから活動的である。
こんな素敵な朝焼けを豪華な高層アパートの上階から見下ろす人がいる。そして地面から見上げるホームレスの人もいる。
朝焼け側からすれば、朝焼けを見る人間に差別や区別などなく、朝焼けはそれらの人々が公平に見えるのだろうなと思った。
地面から見上げる朝焼け、そして朝のうちのちょっと冷ややかな気持ちよい空気の中で『ホームレスが見る朝焼け』の方が『見る側』の価値として高いような気がした。
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