僕が25歳の時に作った映画『イヌ』(2003年公開・83分・制作1993~2002)
正確には、完成したのは34歳になっていた。
35ミリFILMの自主映画。
たった一人で作れるのか?試してみたかった。
総製作費は1500万以上。
★本編視聴サイト 北田直俊監督作品『イヌ』
生きていて、何の目標もなかった。
映画は作っていても、職業映画監督には興味がない。
金儲けも、マイホームも、結婚も。
趣味もなかった。ギャンブルやスポーツ、釣り?
女遊び? 何にも夢中になれなかった。
そんな頃に、或る雑誌に載っていた一匹の老犬に目が釘付けになった。
人間に虐待され、片足になったボロボロの老犬に。
何でこんな事をされなきゃならないんだ?
強烈な人間に対する怒りが芽生えた。
その怒りだけをインスピレーションで
一本の脚本を書き殴った。
端っから何もない。世の中や社会に対しても、親·家族に対しても。
まるで自殺する遺書かテロリストの犯行声明かの如く
『糞のような話』というタイトルを付けた。
この映画を撮る! そして死んでやる!
言いたいことを全て吐き捨てて野垂れ死んでやると、覚悟だけは定まった。
だが、資金は? 機材は? 仲間は? キャスティン グは?
そんな見切り発車の撮影だった。
継ぎ接ぎだらけの小汚い貧乏映画だが、完成と同時に
その頃、好きになった彼女が僕の代わりに自殺してしまった。
2003年の真冬の1月、莫大な借金と共に、『イヌ』と改題した
重たいセルロイドFILM巻を抱えて途方に暮れていた。
もう二度と観たくない程に、僕の恥ずかしくて忘れたい当時が
満載の乞食映画『イヌ』。
だが紛れもなく僕の青春そのものでもある、この映画を
16年振りにネット公開するのは、僕なりの過去との和解なんだろう。
★本編視聴サイト 北田直俊監督作品『イヌ』
●評論
監督の北田直俊は、高校時代に二千本の映画を看破したという。
彼は高校を中退後の十余年に、様々の職業を経つつ、精力的に8ミリ、16ミリ作品の習作を重ねた。
青春期、映画に惑溺し、創作を夢想するものは数多いが、精力的、肉体的エネルギーを持続させ、
実現するものは希である。
にもかかわらず、殊に邦画を巡る状況の困難な今日、北田が弱冠三十歳にして、劇場公開を前提としたこの35ミリ作品の、監督、脚本、撮影から資金調達までの全てを、独力で成し遂げたことは、まさに壮挙であると言うほかはない。
一個人にとって決して軽くない責務を負い、10年の歳月を掛けて完成した本作で、彼が問うものは何か?
それは我々が意識的、無意識的に目を逸らしている、我々自身の姿である。
日々、テレビは軽快な音楽と溢れる笑顔で間断なく新車の購入を歓奨している。
かの車を買いさえすれば、夢のような恋や家庭の団欒がもれなく付いてくるかのようである。
しかしながら、自動車によって、我が国だけでも毎年確実に一万に近い人命が奪われている事実を
CMが伝えることはない。
この殺人はやむを得ぬといったニュアンスを漂わせ、むしろ「事故」の名で処理され、
加害者に課せられる刑罰は刃物などによるそれと比して軽い。
犠牲が飼い犬ならば、いくばくかの金銭がやり取りされて終わる。
では飼い主のいない犬ならば…
死そのももが存在しなかったかのように扱われるだろう。
それは生が存在しなかったことと同義である。
開巻、捨て犬を運ぶ産業廃棄物処理車は暗示的である。
大量生産、大量消費のシステムが必然的に生み出す膨大なゴミは、消え去るのではない。
多くはただ人目につかない所へと移動されるのみである。
そうして我々は「清潔な」環境を手に入れたと考える。
「見えない(見ない)もの」は存在しないことにするという暗黙の了解が
垣間見える。(同様にある種の病者、弱者、例外者もそれぞれの施設に収容することで
「健全な」社会を確保したとする)
作中、捨て犬やその化身を救うのは、強盗犯であり、少女の亡霊であり、
乞食の少年、即ち例外者である。
一見「善良な」「普通の」人々は捨て犬、及び例外者にただ「存在しないこと」を望む。
自分の庭の内さえ平穏であれば、塀の向こうで誰が傷つき、飢え苦しんでいようと関知しない。
これが我々のありのままの姿であろう。
我々は「見えない(見ない)ものは存在しない」、「無価値な(と見なすものは存在しない)」
かのように扱うという思想に形作った社会を容認し、構成している。
たった今も、アスファルトの上に小さく丸まったあるいは四散した毛の塊をちらと眺めては往き過ぎる無数の乾いた瞳があるだろう。
簡易な哀悼と瞬間の忘却は、「高度に発達した文明の快適な移動手段」の恩恵を享受す
るための必須条件である。
北田直俊は敢えて、路傍のもの言わぬ断片、「存在しなかった犬」を我々の眼前に
疾駆させて見せた。
世にどれほどの虚偽と悪意と無関心が隠されているかを微かにも知る臭覚の持ち主は、
怒りと悲しみに満ちた本作の放つ鮮烈なイメージに感応することができる。
(映像評論家·平井正樹)