風光明媚な京都には、多くの国内外の観光客が足を運ぶ。
それはなぜか……日本の失われた煌びやかな時代を感じにやってくるからだ。
あなたは、京都の中心地、下京区河原町五条の南東に遊廓があったことをあなたはご存知か?
《遊郭=赤線》が、本当にこの観光地・京都にあったのか……。
そう思われる方も多いかと思うが、五条に犇(ひし)めいた旅館のような構造をした建物の中で、性風俗の行為を行うものは実際にあったのだ。
売春防止法施行まで名も知らぬ少女たちが春を売る
元来、五条新地や六条新地、七条新地という複数の遊廓があったのだが、大正時代に合併。
長きに渡って七条新地という愛称で親しまれた。花街は戦後には赤線として、男たちの欲望を受け止め続けてきた。
赤線というのは、1946年のGHQによる公娼廃止指令から、1958年の売春防止法の施行まで、公認で売春が行われていたエリアのことを指す。
赤線区域、赤線地帯などとも言われるこの観光エリアは、1958年当時に『五條楽園』と呼称を変え、お茶屋84軒、置屋16軒、旅館15軒、バー・スタンド19軒の中で、女衒(ぜげん)たちに貧しい村などから買い集められた女たちは春を売っていたのだ。
2階部分でサービスを行うのだろうか?
哀しい女たちの息遣いが染み込む街並み
女たちが男たちを受け入れる、欲に突き動かされたこの街。
私は、特殊犯罪アナリストとして、京都から大阪へ移った80代の遊郭経営者を取材したことがある。聞き出した話は、想像を絶するものだった。ここでは、そんな哀しい女たちの話を挙げていこう。
出産後に夫に子供を奪われた三十路女
腹を痛め、夫の跡取りとなる男児を生んだ女性は出産直後に子供を取りあげられ、一度も子供を抱くことなく借金苦で、そのまま赤線で働き続け、短い生涯を閉じた。
毎日の売り上げを花札で毟(むし)りとられる少女
日々自分の体を使って金を稼ぐのはいいのだが、そのまま売春管理をしている経営者との花札でカモにされ、逆に借金をして足抜けできなくなってしまった少女。
この銭湯もやはり2階が遊郭っぽい造りだ
梅毒に冒されてもなお、働かざる負えない20代女子
売春宿で働けば、自然と高まる性病感染のリスク。病に侵されたとしても、貧しい田舎で農業を営む親のため、兄弟のため、働かざるを得ない。その女性は進行していく病状の中、ついには脳まで冒され、店から捨てられたという。
このような話は一部だけではない、赤線で働く女たちにはさまざまな悲劇がつきまとう。
昭和の雰囲気に包まれるディープゾーン
営業を休止したのは、ほんの少し前の2010年。
お茶屋と置屋の経営者らが売春防止法違反容疑で逮捕されたことでこの『五條楽園』の歴史は幕を下ろした。それ以来はすべての店が休業している。さらに数々の男と女を見つめてきた『五條楽園』の看板も撤去され、一時は枯れた街となってしまった。
現在は、職人の手で紡がれるように折り重なる美しいステンドグラスのハイカラな建物や昭和の女給が飛び出してきそうな時代を感じさせる豆タイルのカフェ跡、コンクリート造りの古いビルなどが残り、ノスタルジックな気分を味わえる、素敵な街並みになっている。
女たちが春を売っていた時代があったことすら知らないオーナーが経営するオシャレなカフェや飲食店が増え続け、今では活気を取り戻しつつあるようだ。
京都の暗部を漂わせるこのエリア……。
寺社を回ることもいいが、あなたも一度観光ついでに、京都の包み隠された過去に触れてみてはいかがだろうか?
解説/丸野裕行(裏社会ライター)