(文=川本三郎/『キネマ旬報 2018年11月上旬号(10月20日発売)』より転載)
いつも微風が吹いているような清涼感
五十代はじめの作家がアルツハイマーになる。余命が限られる。
重い物語なのに重苦しくない。いつも微風が吹いているような清涼感がある。
中山美穂演じる主人公に、どこかもう世を降りたような静かな諦念があるからだろう。黒澤明監督「生きる」が語られる場面があるが、中山美穂もまた自分の生がもうじき尽きることを覚悟して、日常の暮しのひとつひとつを整理してゆく。
まず何よりも、最後となる小説を仕上げる。「生きる」の主人公が、生の証しとして最後に町の人のために小さな公園を作ったように、何か世のためと思い、大学で文学の授業を受持つ。若い世代に、自分なりの文学観を伝えようとする。
そこで韓国からの留学生(キム・ジェウク)と知り合い、親しくなる。小さな、世を隠れるような恋愛が生まれる。といって無論、長続きするはずはない。
日本の女性と韓国の青年が愛し合う物語になっている。監督は愛すべき映画「子猫をお願い」(01年)を作った女性、チョン・ジェウン。日韓合作であるが、この映画は「日本」や「韓国」をさほど強く意識させない。寓話のような透明感がある(留学生を演じるキム・ジェウクの日本語が抜群にうまいせいもある)。
生が限られた主人公のいわば末期の目で見られているため、風景も人間もあくや汚れが落ちている。東京の町ひとつとってもけばけばしい看板や電柱、ガードレールが見えない。余分なものが剃ぎ落とされている。
そしてこの映画の中心にあるのが主人公の家。実際の建築家の家を借りて撮影したというが、余計なもののない家で、コンクリートの壁が木造の屋根でおおわれている。家の前に家全体を守るように欅の木が立っている。
家は主人公の城であり、隠れ家でもある。イギリスの作家ヴァージニア・ウルフは「女が小説を書くためには、女が『自分だけの部屋』を持つようにならなければならない」と言ったが、この家全体が主人公の「自分だけの部屋」になっている。
そして、室内はなんときれいに整頓されていることだろう。ふつう作家の部屋は本や資料で乱雑になっているものだが、この家は隅々まで整理されている。本棚もきちんと本が並べられている。しかも、主人公は留学生の青年に頼んで色別に整理し直してくれと頼む。壁一杯の本棚が大きな絵画のように見えてくる。
彼女はそうやって生ある限り、周囲の世界をきれいに片づけてゆく。この映画が決して重苦しくなく清涼なのはそのためだろう。
「蝶の眠り」
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●監督・脚本/チョン・ジェウン 撮影/岩永洋 照明/谷本幸治 録音/小川武 装飾/西渕浩祐
●出演/中山美穂、キム・ジェウク、石橋杏奈、勝村政信、菅田俊、眞島秀和、澁谷麻美、永瀬正敏
●発売・販売元/キングレコード
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