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三島
「天皇問題では、つまりいまは顕教と密教とが逆になっちゃった。顕教というのは、天皇が人間であり、象徴である。密教がいま学校では教えていないんだけど、現人神信仰というのが残っているのが密教だよ。」
福田
「ただ、僕にとって問題なのはエゴイズムの処理なんですよ。個人のエゴイズムというのは、時には国家の名において押さえなければならない。それなら国家のエゴイズムというのは何によって押さえるかというと、この原理は、天皇制によっては出てこないだろう。日本の国家のエゴイズムを押さえるということは、天皇制からは出てこない。僕は天皇制を否定するんじゃなくて、天皇制ともう一つ並存する何かがなくちゃいけない。絶対天皇制というのは、どうもまずい。」
三島
「僕はその問題はこういうふうに考えている。つまり僕の言っている天皇制というのは、幻の南朝に忠勤を励んでいるので、いまの北朝じゃないと言ったんだ。幻の南朝とは何ぞやというと、没我の精神で、僕にとっては、国家的エゴイズムを制肘するファクターだ。そのために、天皇にコントロールする能力がなければならない。」
「天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。」
(河出文庫「三島由紀夫対談集 源泉の感情」ー福田恒存 文武両道と死の哲学 三島由紀夫ー「抜粋」)
「 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。」
「 天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。」
「こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」
「 始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。 国民の理解を得られることを、切に願っています。」
( 「象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉」NHK NEWS WEBより「抜粋」)
ここには今生天皇の「天皇」についての認識が示されている。
「天皇」は顕教としての「象徴天皇」とともに密教としての「現人神信仰」の体現者たるべきとの認識が示されている。
「天皇」は「北朝」ではなく「幻の南朝天皇」としてあるべきとの認識が示されている。
「天皇」は「国家のエゴイズム」「国民のエゴイズム」を制肘するファクターであるべきとの認識が示されている。
しかし、そのためには「天皇にコントロールする能力がなければならない。」
(前出「三島」の発言)
憲法第一条の「象徴天皇」は、その第六条で「内閣総理大臣」及び「最高裁判所の長たる裁判官」を任命し、同第七条の「国事に関する行為を行う」が、その不作為については法権力は及ばない。
この任命や国事行為を行う顕教としての「象徴天皇」の背後には密教が黙座している。
顕教としての「象徴天皇」は国政に関する権能は有しないが、密教としての「現人神信仰」の体現者として、その「信仰者」でありうる国民に「国家のエゴイズム」「国民のエゴイズム」について直接話しかけることができる。
天皇には「国家のエゴイズム」「国民のエゴイズム」を制肘、コントロールしうる能力はある。
その能力の遂行がどのような効果を生み出すのか生み出しうるのか
「幻の南朝天皇」たらんとする今生天皇は、その効果を、
「国家」や「国民」に委ねるしかない、
「国家」や「国民」の認識あるいは理解に委ねるしかない、
そしてまた「国家」や「国民」の信仰に委ねるしかない。
先の大戦を終えて70年、今生天皇は国家や国民には偲ぶべくもない深い思いを静かに述べた。
(画像は筆者撮影)