10年目のクライシス(バブル崩壊狂想曲)
はじめに
ここは、三重県「いなべ市」にある喫茶店のフーゲツ。モーニングのホットサンドは絶品です。
私は、名古屋大学「教育学部」を卒業後に、アメリカのユタ州ローガン中学校で教師をしていた。末日生徒イエスキリスト教会が盛んな州です。
帰国後は、名古屋の河合塾学園などで講師をしていた。その頃、40人中2番人気の講師だったし、英検1級や通訳ガイドの国家試験に合格した。
もう、自分は「鬼に金棒」だと思っていた。これが自分の実力だと過信していた。ところが、自分の塾がうまくいっていたのは、私の実力などではなくて、単なるバブル景気に踊らされていただけだった。そんなことは、後にならないと分からない。
バブルが崩壊したら、カオスが待っていた・・・
亡き父は、塾の掃除などの手伝いをしてくれていたのに、心配ばかりかけた。正直に書くと、ウザいと思っていたのだが。
第一章
「それは、バブル崩壊からはじまった」
長女が生まれたとき、私は思い切って塾を新築し、アパートから一軒屋に引っ越した。もちろん、20代でお金がないから、あちこち頭を下げて銀行から巨額の融資をしてもらった。20年ローンだった。ン千万円の現金を手にしたときは、震えました。
それから、10年ほどたった頃にバブルが弾け、一般ピープルの懐具合が悪くなり、少子化も進み、塾の経営環境が厳しくなっていった。その頃に、A子ちゃんが来てくれたのだけれど、とても賢そうだった。
このとき、私は公私共に危機に陥っていた。プライベートな方は、奥さんと別居して四日市の家庭裁判所で調停をしたのだけれど、私に浮気、暴力、生活費を入れないなどの法廷離婚理由がないので離婚できない状態が続いていた。
娘たちが思春期だったので、離婚してショックを与えたくなかった。
しかし、長女が大学に入学する時が迫り、奥さんが持ち出した通帳の半分でも返してもらわないと入学金や授業料の支払いに支障をきたす。悩みました。後になって分かったのだが、もと奥さんも再婚を焦っていたらしく、離婚する必要があったらしい。
再婚相手がインド人と聞いて、私はビックリした。
結局、私は長女の学費のために法的な離婚に応じることにしたが、次女も、三女も大学入試が近づいていた。
「ボクが夜逃げしたら、母は生きていけるかなぁ」
私が大学2年生で留年した年の夏休み、両親は心配したのだろう。どういうわけか、私の短期アメリカ旅行のために50万円を支払ってくれた。決して裕福ではない親だった。親戚からお金を借りていることも知っていた。
自分が父親になって、子供三人を大学に行かせるためにお金を用意するのは大変だと分かった。今更ながら、親のありがたさを感じる。
「そんな母親を置いて夜逃げか・・・」
当時、ボクは何を考えていたのだろう。月末の給与の支払いの金策ばかり考えていた。生徒を増やす方法ばかり考えていた。
百五銀行も、桑名信用金庫も、政策金融公庫も、すべて信用保証協会につながっていて融資は限界。電気屋さんに見積書を作ってもらい、融資を引き出し、娘の学費を名目にお金を借りた。
しょせん、頼りになるのは自分だけ。本当に困ったときに手を貸してくれる人などいない。