申年は芸能界波乱の年 ベッキーの場合

  by あおぞら  Tags :  

年初からいきなり週刊誌につかまってしまったベッキー。写真と言う証拠がある限り逃げも隠れも出来ないはずだが、記者会見と言う名目で記者を集めておきながら、一方的な釈明で、しかも質疑応答を受け付けないと言う荒業。

人間の評価はスキャンダル発覚前と発覚後ではこうも違ってくるのか。第三者が容易に想像できるくらいだから、その衝撃的な天と地の違いに当人が一番びっくりしているのではないだろうか。

ベッキーというタレントは聡明な女性のイメージがあるし、常識的で立ち回りが上手いし、同性からの人気が高いと言うことは相当の好感度が高いタレントであったわけだ。

しかし、世間は誉める人がいれば、けなす人もいる。ベッキーのことを礼儀正しくスタジオ入りする前に、スタジオに一礼して入ると褒める人もいれば、元気の押し売りとけなす人もいる。

お笑い芸人の自宅にベッキー含め数人で遊びに行った時、お笑い芸人はベッキーが食器の洗い物をするためにキッチンに入る際に一礼をして入ったことに感銘を受けて、そのエピソードをテレビで言っていた。エッセイ本も精神性の高さをうかがわせる書評で、将来的には何かの講師にスイッチするのかな?とも思うほどだった。

ただ、今回の不倫騒動で一気に、その優等生は仮面をかぶっていただけなのが暴かれてしまった感がある。

聖書に良い行いをする際は、人の見えないところでしなさいと言う言葉がある。確かにこれみよがしに善行を見せつけられるとげんなりだ。ベッキーは礼をするという美しい行為をしながら、平気で人を欺いていたことになる。優等生ぶる分だけ罪は重い。

ベッキーだけが悪いわけではない。新婚数か月で結婚していることを隠していた相手も下衆の極みの卑劣な男ではあるが、もし、ベッキーが世間の大半の抱くイメージの”良い子”であれば、既婚者と付き合うことが致命的であることは明白にわかるはずである。しかも、奥さんの目を盗んで泥棒猫のようなハレンチな横恋慕をしているわけだからもってのほか。

記者会見と言えないような釈明会見では神妙な面持ちで涙目で謝罪するけれど、結局、人の目に見えないところではラインでふざけたやりとりを不倫相手としていたわけで、人に見られていなければ卑劣なままで、人の目があると一瞬にして良い子に豹変できるのも技術と言えば技術だろが、あまりにも寒い。

関西のご意見番とも言える上沼恵美子が自身の番組で、東京で仕事がある際にベッキーが「上沼さんに会えると思うと昨夜眠れなかったです、ベッキーと言います」のような口調で挨拶にきたことを話し、ウソっぽくても言われれば嬉しいのが人の心なので、上沼恵美子ですら関西ではベッキーをほめそやしていたと言う。

裏があるとか、調子いい、優等生ぶるというマイナスの評判が結果的に正しかったことになる。肝心かなめの時に大きな失態をやらかすのは、結局、その失態自体にその人自身の生き方が現れているのだ。

今まで、順風満帆で過ごした人生でも躓きをみせる。もし、今回のことが公にならなかったとして、不倫相手も秘密裏に”卒論”が書けて、不倫が転じて結婚になったとしても、新婚数か月で平気で相手を乗り換えようとするような男はもう先が知れている。ベッキーは最初の妻がされたようなことをいずれ自分にされるようになるのだ。人のものを盗ると結局同じようなことを他人からされるのだ。だから不倫をする人たちが幸せになりにくいのだ。

芸能界だけのハナシではなく、こういうことは一般社会でも結構いろいろある。

災いに巻き込まれないように気をつけなければいけないが、万一巻き込まれてもそれを正しく解決に導くよう葛藤しつつ乗り越えるのが人生の意義。人を欺いて生きていたり、見せかけで良い人にみせているような人は火事場の馬鹿力が出せないし、また、真実を見る目が曇って行ってしまうのだ。

上沼恵美子がベッキーをしたたかと表現していたが、したたかでもあるが、なんだか浅ましい下品な女に思えてしょうがないし、本当の心は育っていなかったんだろうなと思う。

ニューヨークから発信しています