今年も全5回にわたってお送りして来たこの短期集中連載も今回が最終回となりました。第1回でも既に述べているように、現在の政治状況から見て来年のこの時期にはこの連載を企画すること自体が不可能になっている可能性が非常に高いので、恐らく今回が名実共に最終回となるはずです。
今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2015・その1【文学・前編】
http://getnews.jp/archives/1281242 [リンク]
今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2015・その2【文学・後編】
http://getnews.jp/archives/1282693 [リンク]
今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2015・その3【美術編】
http://getnews.jp/archives/1286715 [リンク]
今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2015・その4【音楽編】
http://getnews.jp/archives/1289996 [リンク]
ただ、ネットを中心に広まっている誤解について一点だけ指摘するならば「来年から最低でも20年にわたり日本から“著作権保護期間満了”と言う概念が一切存在しなくなる」と言うことは無いはずです。何故なら、これから9年後の2024年(平成36年)には2003年(平成15年)に他分野を先取りする形で延長された映画著作物の保護期間満了が再開される予定であり、現状でも1899年(明治32年)から1970年(昭和45年)まで施行されていた旧著作権法の下で企画・監督など中心的役割を担った個人に著作権が帰属する映画著作物はその個人の「没後38年」の方が「公表後70年」よりも長ければ前者の方が適用されるため、散発的に保護期間満了が訪れているからです。それに、日本が現在採っている相互主義を米国やメキシコと同じように放棄しない限り来年以降に批准されるであろう各種の協定と関係しない国や地域の著作物、例えば香港映画などの保護期間満了は従来通り訪れるとみられます。
これらは飽くまでも「見通し」であって必ずそうなると言うことを保証するものではありませんし、その時になったらまた国内外の法律や条約が変わっていると言うことも当然に有り得ます。まずは3年後の2018年(平成30年)に、米国で「1923年没の個人がその年に公表した遺作」と言う非常に狭い範囲ながらも保護期間満了が再開されるか否かが日本を含めた全世界の知的財産政策の動向を占う大きな試金石となるでしょう。
百年に 一年たらぬ つくも髪 我を恋ふらし 面影に見ゆ
(伊勢物語・63段)
米川正夫(ロシア文学者、1891-1965)
1891年(明治24年)、岡山県上房郡高梁町(現在の高梁市)に生まれる。東京外国語学校を首席で卒業し、ロシア語通訳や三菱本社長崎支店勤務などを経て北海道の旭川第七師団でロシア語教官となる。この時期にドストエフスキー『白痴』を翻訳し、新潮文庫から刊行するが同文庫の一時休刊により4巻で中断した。
1917年(大正6年)、大蔵省のペトログラード(現在のサンクト・ペテルブルク)駐在員を務めていた際に現地でロシア革命に遭遇する。内戦激化のため日本へ帰国し、領事館通訳や陸軍大学校教官を務めた。1927年(昭和2年)にソビエト連邦政府から招待を受け、モスクワを訪問。1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)にかけて中村白葉と共同で『トルストイ全集』全22巻を刊行。1935年(昭和10年)には『カラマーゾフの兄弟』などドストエフスキーの主要作品をほぼ訳し終えるが、1941年(昭和16年)に内務省検閲課からソビエト連邦のスパイではないかと嫌疑を懸けられたことが発端となり陸軍大学校を依願退職する。
終戦後の1946年(昭和21年)に早稲田大学文学部へ講師として迎えられ、同年から足掛け7年を費やして個人で全訳した『トルストイ全集』全23巻を創元社から刊行。翌1953年(昭和28年)には戦前からの悲願であった個人全訳の『ドストエーフスキイ全集』全18巻を河出書房から刊行し、同年の読売文学賞を受賞する。『ドストエーフスキイ全集』の完結後も別巻の構想があり、翻訳作業を進めていたが食道がんのため1965年(昭和40年)12月29日に亡くなった。74歳没。
『青空文庫』では『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』など6編のドストエフスキー作品の翻訳が公開に向けて作業中。
大賀一郎(植物学者、1883-1965)
1883年(明治16年)、岡山県賀陽郡庭瀬村(現在の岡山市北区)に生まれる。東京帝国大学理学部を卒業後、大学院で植物細胞学を専攻し生涯のライフワークとなるハスの研究を始める。1917年(大正6年)には関東州の大連にあった南満州鉄道中央研究所に招かれ、植物班主任として10年余りを研究に費やすが関東軍の暴走に端を発する満州事変に抗議して退社し、日本へ帰国した。
戦中戦後は東京女子大学など複数校で講義を受け持っていたが、1951年(昭和26年)に千葉市の東京大学検見川厚生農場内にある遺跡から2000年以上前のハスの実を発見し、種子の開花を成功させる。このハスの開花成功は世界的なニュースとなり、1954年(昭和29年)には「検見川の大賀蓮」として千葉県から天然記念物に指定された。
1965年(昭和40年)6月15日逝去。82歳没。主な著書には遺作となった『ハスと共に六十年』がある。『青空文庫』の作業リストには登録されていないが、公開作品の南方熊楠『十二支考 猪に関する民俗と伝説』では「大連市の大賀一郎氏」として満州に生息していたサソリ4匹を熊楠に寄贈した逸話が紹介されている。
久原房之助(実業家・政治家、1869-1965)
1869年(明治2年)、長門国萩城下(現在の山口県萩市)に生まれる。東京商業学校(一橋大学の前身)を経て慶應義塾に入学し、卒業後は叔父が経営する秋田県の小坂銅山で採掘技術の改良に当たった。1903年(明治36年)に独立した後、茨城県で銅山を買収し1910年(明治43年)に日立製作所、1912年(大正元年)に久原鉱業所を相次いで創業し新興財閥を築くが、急拡大の反動で業績の低迷に苦しみ久原鉱業所を義兄の鮎川義介へ譲渡した。鮎川は久原鉱業所を日本産業へ改称し、後に十五大財閥の一角をなす日産コンツェルンを形成した。
1928年(昭和3年)、立憲政友会に入党して山口1区から衆議院議員総選挙へ出馬し初当選、新人ながら田中義一内閣で逓信大臣に抜擢されるが1936年(昭和11年)に発生した2・26事件の煽りで失脚状態に追い込まれる。1939年(昭和14年)には立憲政友会の党内抗争に勝利し、第8代総裁に就任する。翌1940年(昭和15年)にはかねてから政治信条として掲げていた「一党一国論」に基づいて立憲政友会の解党を断行し、大政翼賛会結成と言う形で構想を実現した。
戦後は戦犯の嫌疑を懸けられるも起訴をまぬがれ、公職追放処分が解けた後に衆議院議員を1期務めソビエト連邦および中国との国交正常化に尽力した。政界引退後は慶應義塾顧問に就任したが、1965年(昭和40年)に逝去。95歳没。著作に『皇道経済論』や『前進の綱領』『久原一家言』などがあるが、『青空文庫』の作業リストには登録されていない。
画像‥大賀ハスを手に説明する大賀一郎(1952年撮影)