情報の信頼性について考える

  by 日比野寿舟  Tags :  

12月14日に投開票が行われた衆院選では、下馬評通り自公の圧勝に終わりましたけれども、ネットで注目されていた政党がありました。次世代の党です。

次世代の党は、日本維新の会から分裂し、自民党よりも更に保守的な理念を掲げる政党として8月に結党しました。選挙戦では積極的なネット戦略も展開し、「誰もが知らんふりするタブー」を斬るとした「タブーブタ」キャラを一刀両断する動画をネットで配信。再生回数は30万回を超えたそうです。

けれども、選挙の結果は僅か2議席を確保するに留まりました。12月15日、平沼党首は会見で「急な解散で党の知名度が不足していた」と述べていましたけれども、ネット右派、いわゆる「ネトウヨ」頼みの選挙には限界があるのではないかという指摘も出ているようです。

そこで、ネットにおける情報の伝搬性・拡散性と情報発信手段および信頼性の問題について考えてみたいと思います。

情報も利益を生む

まず、発信手段の確保についてですけれども、既存マスメディア媒体と比較して、ネットが圧倒的に優勢であることは間違いないでしょう。なにせ回線とPCあるいは携帯さえあれば、誰でも、何処でも情報が発信できるからです。

ネットの無い昔であれば、自分の意見を世の中に発信したくても、新聞や雑誌の投書欄に投稿するのがせいぜいだったのですから、まるで状況が違います。

ネットの出現によって、市井の人々が自分の意見を公に、そして手軽に発表できるようになった。この意味において、ネットは”情報の民主化”を推し進めたといっていいかと思います。一部のマスコミが情報を独占できなくなった。いわゆる「情報貴族」が消滅しつつあるのですね。”情報”も利権の一種とみるならば、これは「既得権益」の崩壊でもあるわけです。

さて、その情報が”利権”であるためには、その情報が何らかの利益をもたらさなければなりません。利益を生み出すところの情報を特定の誰かが独占することによって、はじめてそれが「利権」になるわけです。

では、利益を生み出す情報とは一体何か。

それは平たくいえば、「人に先んずることができる」ということです。その他大勢が知らない内に、その情報によって何かを得たり、囲い込んだり、また危機を回避したりすることができます。端的な例でいえば、あまりいい例ではありませんけれども、インサイダー取引などはそれに当たるでしょうし、あるいは、不動産取引などで、お得意様に未公開物件を紹介するなんてのもそうかもしれません。

けれども、その情報が利益を生む為には、まず人に先んじて行動しなければならないという前提があります。つまり”先行投資”が必要になるということですね。

そうした場合、やはり、その情報の確度、すなわち信頼性が重要になってくるわけです。

ある情報が利益を生むためには、人に先んじて先行投資をする必要があります。ですから、先行投資する人は、ある意味において、その情報を信じて「賭け」をしているわけです。もちろん、他の情報源にもあたって、十分検討した上で決断するのでしょうけれども、まだ表に知られていない段階で動くわけですから、客観的には投資行動になります。

その時、その情報が正しければ正しいほど、それに対する投資行動もぴたりと合致するわけで、投資効果は最大となります。あたかもルーレットで、”一点賭け”してズバリ当てるようなものですね。

一方、その情報が正しくない”ガセ”情報だったりした場合は、逆に損失を被ることになります。

情報の伝搬に潜むワナ

何某かの情報について、それが間違ったものになる理由として大きく2つあります。ひとつは一次情報(ソース)から間違っている場合、もうひとつは情報を伝達する途中で欠落したり変容したりする場合です。

前者についていえば、ソースから間違ってしまっていたら、もうどうしようもありません。途中でそれを修正したりすることがない限り、その情報を信じて行動すると、かなりの確率で失敗することになります。無論、その場合、情報元の信頼度はその分落ちることになります。

次に後者についてですけれども、これは、ある情報ソースから出た情報が人を介して伝達されるうちに、まったく別の内容に変質してしまうケースです。これは、情報の伝搬性の問題でもあるのですね。

一番分かり易い例でいえば、伝言ゲームなんかがそうでしょう。伝言ゲームでは何人かの人を介して、文章を伝えていきますけれども、最初にいった人の文と最後に聞いた人の文が全然違っていたりするなどよくありますよね。

これは、聞いた人が、次の人に伝える際に、文章の細かい部分などが少しづつ変わったり、抜け落ちたりする、いわゆる”エラー”がどんどん積み重なって、最終的にまったく違った文章になってしまうケースです。

けれども、それ以前に、この伝言ゲーム方式による情報の伝達には、注意すべき重要な点があります。それは「情報を中継する役目を負う途中にいる人は、受け取った情報をそのまま次の人に伝えなければならない」という決まり事があることです。

もしも、途中の人が、聞いた文章とまったく違った別の文章を次の人に伝えてしまったら、そこから先は100%間違った情報が伝達されてしまいます。そんなことを許してしまったら、ゲームそのものが成立しなくなりますよね。

けれども、最大の問題は、その間違った情報を伝達された人は、最後の答え合わせの瞬間まで、間違って伝えられたことを認識できないということです。伝言を最後に聞く人は、ゲーム終了まで伝言を捻じ曲げた人にだまされたことに気づくことすらできないのです。

この伝言ゲームの構造は、実は、マスコミと視聴者との関係にも当てはまります。

仮に、現場、あるいは、一次情報ソースを”伝言ゲームの最初の人”に、視聴者を”伝言ゲームの最後の人”に見立てたとすると、マスコミは丁度、伝言を伝える途中の人になります。このとき、途中の人(マスコミ)が伝言を全部つたえなかったり、一部だけしか伝えなかったりしたら、伝言は最後の人(視聴者)にまで正確には伝わらなくなります。

けれども、最後の人は、それが”正しくない情報”であると決して気づくことができません。なぜなら、伝言ゲームとは違って「答え合わせ」をする機会がないからです。

普通、市井の人は目の前で事件に遭遇でもしない限り、現場情報に接することはまずありません。遠くのどこかで起こったことは、マスコミを介した「加工済み」の報道でしか知ることはできません。けれども、視聴者はそれが、途中でどのように加工されたのかを知ることはできないのです。ここにワナがあります。

マスコミのニュースなどで、国会で何々大臣がこう発言した、誰々首相はこう答弁したなどと報道しますけれども、あれなども、どこか一部を切り取った情報に過ぎません。最初から最後まで全部ノーカットで流せない場合は、どこかを切り取るしかないのですけれども、それが「伝言」全部のうち、どの部分を切り取ったのかについては、最後の人(視聴者)にはうかがい知ることはできないのです。

ですから、もしも、途中の人になんらかの意図があった場合、それに基づいて恣意的に伝言をゆがめて伝えることができてしまいます。これがいわゆる「情報操作」にあたります。無論、この情報操作のなかには、情報を全く伝えない「報道しない自由」も含まれます。

ここで、この”最後の人が情報のゆがみに気付けない問題”を解決するものとして登場したのがネットなんですね。

ネットの拡散性

先程述べたように、ネットによって、多くの人が手軽に自分の意見を世の中に表明できるようになった。つまり、伝言ゲームの”最初の人”と”最後の人”が直接、糸電話で話せるようになったわけです。

これによって何が起こったかというと、「答え合わせ」ができるようになったのですね。ネット動画などで、国会中継や記者会見のノーカット版がアップされ、ツイッターやフェイスブックなどで発言者本人とアクセスできるようになったおかげで、最初の人の伝言は何だったのかということを最後の人も確認できるようになった。これによって、途中の人がズルをしていたり、ちゃんと伝言していなかったことが明らかになったわけです。

今のところ、まだまだ自分で「答え合わせ」までする”奇特な人”の数は多くはありませんけれども、「答え合わせ」ができる環境ができたのは大きなことで、これまで気づくことすらできなかった、情報のゆがみや損失を、その気になりさえすれば”最後の人”が知ることができるようになったのです。この意味は決して軽いものではありません。

では、その”奇特な人”をどうやって増やしていけばいいのか。

一つは、「動機づけ」になるかと思います。つまり、「答え合わせ」をしなければ損をする場合がある、もしくは、間違った伝言を信じ込まされていると伝えて、本人に納得させることでしょう。知らぬ間に損をさせられていた、という自覚は、「答え合わせ」をするための動機づけの一つになると思います。

あと、もうひとつ考えられることは”奇特な人”にならなくても「答え合わせ」できるようにする、という方法があるかと思います。つまり右耳にはこれまでどおりの伝言ゲーム方式の伝達をする一方で、左耳に一次ソースからの直通糸電話を当てがって、動機づけしなくても「答え合わせ」ができてしまう環境をつくるということです。

どういうことかというと、テレビのようにただ見ているだけで情報が入ってくる「受動的」な情報提供をネット上で構築するということです。テレビが情報伝達において大きな力を持っている理由のひとつとして、意識しなくても向こうから勝手に情報がやってくるという「お手軽さ」にあります。見ているだけで、勝手に伝言ゲームしてくれる。知らず知らずのうちにその伝言を聞いている。そうした現実があります。

つまり、これに似た受動的な環境をネットに構築することができれば、テレビに近い影響力を持つ可能性があるのですね。ではそんなものがネットにあるのかといえば、おそらくツイッターがそれに最も近いと思います。

ツイッターは自分でつぶやくことができる反面、フォローした人のつぶやきがタイムライン上に”垂れ流し”状態で入ってきます。フォローボタンをクリックするだけで実現可能ですから、お手軽さという意味ではテレビのリモコンでチャンネルを合わせるくらいのお手軽さに匹敵します。

ですから、例えば、ツイッターで、「答え合わせ」に相当する一次情報ソースを延々と流すタイムラインがあったとすれば、そこをフォローするだけで、次々と答えあわせ先の情報がやってくることになります。これは自分でいちいちグーグルなどで調べるという手間もなく、「受動的」な情報提供環境といっていいように思います。

更に、ツイッターの利用者数の多さ、リツイートによる拡散スピード等など、部分的には既存マスコミを上回っている部分すらあります。ですから、今後、ツイッターを利用した「答え合わせ」環境の充実が進めば進むほど、情報のゆがみが正され、気づく人が増えていくのではないかと思います。

ソースの問題

最後に、もういちど元に戻って、誤った情報が伝達される問題のひとつであるソースから間違っている場合について考えてみたいと思います。

これまで述べて来たように、将来的に、情報伝達中のゆがみを無くす、あるるいは正すことが出来るようになったとしても、ソースから間違っている場合にはどうしようもありません。

このソースから間違っている場合にはどう対処すればいいのか。つまりソースの信頼性をどう見極めるのか、という問題ですね。

これまで述べてきたように、信頼性の高い情報とは、すなわち、正しい情報ということになるのですけれども、なぜ、「正しく」なければならないのかというと、結局、責任が取れなくなるからなのですね。

正しい情報には当然、ウソがあるわけではありませんから、その情報を生かすも殺すもその情報を受け取った人次第ということになります。ひっきょう、たとえその情報によって損失を被ったとしても、その責任はリスクを負って行動したその人にあります。

逆に情報が正しくなかった場合は、それによる損失の程度にもよりますけれども、間違った情報を流した側の責任を問われることもあります。よく週刊誌などがガセネタを流して相手側から訴えられて敗訴するケースがありますけれども、あれなども間違った情報の責任を問われたケースに当たります。

この情報に伴う責任という観点から考えると、情報ソース側の社会的影響力が大きくなれば大きくなる程、情報の公開には慎重にならざるを得ません。

よく、会社の公式見解であるとか、官公庁のサイトに記載される情報があたり障りのないつまらないものになりがちであるのも、情報に伴う責任を考慮すればこそです。ですから、逆にいえば、社会的影響力の大きいところの公式見解などは、一般的に情報の信頼性が高いともいえ、社会的責任の重さゆえに正しい情報が多いだろうと推測することができます。

では、社会的影響力がそれほどでもない情報、例えば中小サイトや個人ブログなどの信頼性をどうやって判定するのかとなると、これは過去の実績または多くの人の目による判定の集積を見ていくしかないように思います。

過去の実績をみれば、そのサイトの情報がどれだけ正しかったかは大体わかりますし、多くの人々から、これはよいとうわさされるサイトはやはり一定以上の信頼度はあるように思います。これなどは、そのまんま口コミですし、グーグルのペイジランクの付け方もこの方式ですね。

この、社会的影響力が小さいところのネット情報については、おそらくは、情報の民主化による口コミによって自然に選別されていくのではないかと思います。

Top絵:写真素材 足成 http://www.ashinari.com/

メーカー勤めのサラリーマン。政治・経済・科学・文化など多方面に興味があります。

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