
”醜いほどの努力”という言葉をきいたことがある。そのときは、この言葉が具体的にどんなものなのか、思い描くことが全くできなかった。今回あるニュースをきいて、この言葉を思い出した。ああ、これはそういうことなのかも知れないと感じたから・・・
世界最高齢の80歳で、世界最高峰のエベレスト登頂に成功した、三浦雄一郎さん。登頂に向けて、欠かすことのなかった日々の努力。そのトレーニング方法をきくにつけ、ため息が出てしまう。努力という言葉ではとても足りない。そのときハッとした。醜いほどの努力とは、三浦さんが行ってきたこのトレーニングのことをいうのでなはないかと。
その内容は、過酷というよりも地味だ。それも、人によっては見ていられないくらい、あきれるほど地道なものである。この現代社会でここまでやるとは、泥臭いと思う人もいるかもしれない。その姿は他人には見られたくないと思うかもしれない。三浦さんの行ってきた訓練は、そういう類のものだ。私も三浦さんの努力を、正に”他人事”として見ていた。
手軽に何かを達成しよう、マスターしよう。世の中には、いつもその手の情報が出回っている。その方法を記した本は、良く売れる。このことは実は、どんなことも努力なしには達成できないものだということの、裏返しではないだろうか。泥臭い地道な努力こそが、結局は大きなことを成し遂げるための近道なのだということを、暗に物語っているのだ。三浦さんの偉業達成で、私たちはそのことを改めて肝に命じられることとなったわけだ。
目標は、人に様々な原動力を呼び起こし、あらゆる可能性をもたらす。それを実際可能にしてくれるのは、醜いほどの努力である。三浦さんは、ご自身の努力が醜いものだなどとはもちろん思ってはいないはず。周りから見て”醜い”と感じるようなことが、実は真っ当なことだということは、醜い努力のおかげで何かを成し遂げた本人にしかわからないものなのだ。