どうもどうも特殊犯罪アナリスト&裏社会ライターの丸野裕行です。
《ギャンブル依存症》ということがありますが、みなさんご存知でしょうか?
ギャンブル依存症の定義というのは、一般的に【公営競技(競馬、競輪、競艇など)やパチンコなどの賭けごとにハマりこみ、社会生活や日常生活に支障が生じて、治療を要する状態】を指すわけです。なんとこれは、WHO(世界保健機関)が認定している病気のひとつだといいます。
店名発表がアダになった行政の失敗
新型コロナウイルスの感染拡大が首都圏を中心に、地方都市にも拡大したことを受けて、政府はいち早く緊急事態宣言を打ち出しました。
繁華街の飲食店が営業を自粛する中、一部のパチンコ店は三密を極めるような環境下で、いつもと変わらずホールを開店。業を煮やした行政は、営業を続けるパチンコ店の店名を公表するなどの措置に踏み切りました。
しかし、それが逆効果になり、「あの店なら開いているぞ!」ということで、熱狂的なパチンカーたちが集結してしまうという皮肉な結果を呼んでしまったわけです。
筆者は絶対に人が密集するような場所には寄りつきたくないのですが、彼らはなぜそこまでして、パチンコが打ちたいのでしょうか?
今回は、心療内科で《パチンコ依存症》の診断結果を受けた山口康夫さん(仮名/41歳)に、パチンコ依存の恐怖について、お話を聞けることになりました。
パチンコはバイト先のギャンブル狂の先輩から
丸野(以下、丸)「一体、なにをキッカケにして、パチンコ依存症になってしまったんですか?」
山口さん「僕は30代前半のころに、すでに《パチンコ依存症》になっていました。厳しい親に育てられて、小学校入試で付属の私立小学校へ。そのまま勉強をつづけながら、学校名は伏せますが、関西でいうところの関関同立の大学へ入りました。周囲からは優等生だと思われていた僕だったのですが、バイト先で知り合った先輩の影響で、煙草や酒、風俗遊び、ギャンブルを教わりました」
丸「よくある悪友話ですね」
山口さん「親が知ったら嘆くだろうな、という背徳感の中でパチンコ台のレバーを回すと、ビギナーズラックで連チャン。その日、1,000円が7万円になったので、自分はギャンブル運があるんじゃないか、と思いました。味をしめた瞬間ですね。そこからは、バイト代を女の子とパチンコへ費やす日々がはじまったわけです」
丸「ほほう」
山口さん「今までシャカリキに勉強を頑張ってきたのだから……と自分を甘やかして、それからは大した勉強もしませんでしたね。卒論だけはちゃんと仕上げて、適当に東京の中堅建設会社へ就職。上京してからのバタバタで、パチンコからもこの間は離れていました。それから、6年ほどは、平凡な人生がでしたよ」
仕事と家庭のストレスのはけ口
山口さん「29歳のとき、社内恋愛で妻をもらったのですが、そのころは幸せの絶頂で……。その1年後、ふたりの間に男の子ができました。僕は朝から晩まで仕事、妻は眠ることもままならないほどの乳児の世話。お互いの間には、だんだんとすれ違いが起こるようになってきました」
丸「子供ができることで生活のペースが変わりますね」
山口さん「僕が31歳くらいになったとき、娘が1つになったばかりですかね。あんまり、妻に相手にされないものだから、ぶらりと駅前のパチンコ屋に立ち寄ってみたんです。安月給でも、まぁ子供も小さいし、小遣いはあったので……。やっぱり身銭を切って賭けてみるというスリルがある。それが、自分の右手に蘇ってきましたね。その日は、また勝つことができ、妻に高級寿司を買って帰りました。すると妻は上機嫌。子育てで、自由に外に出て食事をすることもままならないことがわかりました」
丸「なるほどね。その久しぶりの高級なお寿司がうれしかったわけですね」
山口さん「ええ。その日は新婚の頃のように優しくしてくれて。もっと贅沢をさせてやろうと、会社帰りに駅前のパチンコ店に通うようになったんです。仲良くなるためのパチンコ……こんな不健全なことないですよね。でも、そのときはわからなかった。でも、それからは連敗してしまったんですね。一瞬なにかが弾けて、負けを取り戻すために、もう憑りつかれたようになってしまいました」
パチンコのために働いている
丸「マズいですね、それ」
山口さん「手持ちと独身時代の貯蓄がどんどんと減っていって、“いかん、これは仕事の成績を上げなければ!”とスイッチが切り替わり、施工工事成約率も営業で2位まであがりました。手取りが増えるわけですから、またパチンコがやれる、と」
丸「順番が逆ですよね」
山口さん「パチンコを打っているときというのは、強い興奮が味わえて、日々の憂鬱やイライラな気分を解消できるわけです。僕は煙草も酒もやらないので、ストレス発散の場がないことに気がつきました。なんというか、身銭を賭けていると落ち着くんですよね。なんだか、将来への希望が湧いて、すごく落ち着く。なんも変化のない鬱屈した日常生活を送っている中で、台の中は変化に富んでいる。それが救いです」
あの先輩と偶然
丸「そうですか……」
山口さん「そのころには、会社帰りのパチンコ屋が日課になり、閉店までいることが多くなりました。勤務中にも、営業まわりで訪れた街を歩いていて、パチンコ玉の音が聞こえると、体が吸い込まれるように店内へ……。完全に病気だ、自分でもそう思いはじめたとき……」
丸「そのとき?」
山口さん「休日のある日、自宅から離れたパチンコ店へマイカーで向かい、台に座って打っていると、肩をトントンと誰かに叩かれました。振り返ると、僕にパチンコを教えてくれた先輩で……。不自由そうに隣の席に陣取って、昔話をしていたんですよね。懐かしくて。彼も関西から就職で上京してきたらしいんですが、今では何もしていないらしくて。で、どうしたんですかと訊ねると、正社員で入った川崎の工場で足をダメにしたらしく、労災保険と生活保護で生活しているといいうんです。それでも一生パチンコできるからいいんだよ、と微笑んでましたね。その顔をみたときに、自分もこんなパチンコ中毒になるんじゃないかと恐ろしくなりました」
なし崩しに離婚
山口さん「それでもやめられず、クレジットカードのキャッシングに手を出して、数社がすぐにパンク。消費者金融複数社に返済分を利用しようとおもったとき、このままではダメだ、と」
丸「やっとマトモな思考が戻ってきたわけですね?」
山口さん「いや違うんです。これを元手にすれば、一発逆転できるかもしれない。すべてを完済できるかもしれないと思ったんです。結果は全額泡と消え、借金は膨大になっていきました。さらに、業界に出玉の自主規制の波がきまして……昔の台より勝てなくなった、リターンが望めなくなったんですよね。いわば、負け損のままです。そんなこんなで、会社にも行きづらくなりました。借金のこととパチンコのことしか頭にないのですから」
丸「どこかに相談したりとかしなかったんですか? 例えば、パチンコ店って、店内に《リカバリーサポートネットワーク》なんていう遊技業協会が設置している電話相談窓口なんかもありますが……」
山口さん「かけましたよ。でも、パチンコ以外の余暇の過ごし方とか、趣味を持つこととか、どうしてもパチンコがしたいと思ったらパチンコのゲームソフトを買って欲求をしのぐとか、具体的な可決策にはいたりませんでした」
丸「なるほど」
山口さん「あるとき、気がついた妻は双方の両親を呼び寄せて、家族会議を開き、妻は離婚届に判を押して、2歳の子供を連れて実家へ帰り、ギャンブルのことが上手に加減できない僕は実の両親に連れられ、弁護士のところへ。そのまま自己破産手続き……これが《パチンコ依存症》の転落人生です。まぁ自殺するよりはマシですが……」
丸「それからは?」
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彼は、両親の友人に紹介された心療内科に通うようになったそうです。投薬治療とカウンセリングが続き、自分が何をやっていたのか、自問自答するようになっていました。すべてを失った今だからわかることが数多くあると言います。
日々、家族と共に暮らす幸せ、食事を共にできる幸せ、仕事がある幸せetc……すべて小さなものですが、そのささやかなものが大切だと言っていました。
ただ、やはり相変わらずパチンコ玉がジャラジャラと身をこすり合わせる音が街のどこからか聞こえてくると、反射的に右手であるはずのないレバーを回すしぐさをしてしまうのだそうです。
(C)写真AC
(C)リカバリーサポートネットワーク