REDEARTH
「ごめんなさい、お待たせして。」
あの人は娘さんのままの姿で走ってやってくる。
俺は夢の中でも年老いていて、なんだか後ろめたい。
「あら、あなた顔がこんなにしわしわになっちゃって。」
そう言って俺の草臥れた頬を撫でて笑う。
「いやぁ、探しました。」
俺は照れながら答える。
「だけど私もあんまり時間がないんですよ。用事があるの。」
「そうですか。でも一目会えただけでも僕は嬉しい。」
そう言いたいのに言葉がうまく出てこない。涙ばかりが出てきて言葉にならない。
どんどん彼女の姿は薄くなり、焦る気持ちとは裏腹に目を覚ましてしまう。
半年近く毎晩この夢を見る。
俺の人生において唯一の恋人だった。
情けないが、名前も思い出せない。
物忘れもひどく、いつも体の調子が悪い。
医務室に行く頻度も、薬の量も増えた。
多分、もう先は長くないと思う。
初めて捕まったのは29歳の頃だった。
気付けばもう70になろうとしている。
人生のほとんどをここで過ごしていることになる。
今日は慰問の日だ。
車いすに乗せられて体育館まで運ばれる。
今朝、ひどい頭痛と吐き気を申し出たが聞き入れては貰えなかった。
慰問など、俺は大嫌いだ。夢も希望も無い。
ここ2,3年俺の頭は常に靄がかかったようで、はっきりしない。
夢や希望を与えられていたとしても、何もかもがぼやけていて俺の目にはよく見えない。
粗末な舞台の上に男たちが現れる。
どうせいつものように退屈で、ありきたりな歌を歌い、帰っていくのだろう。
俺の気持ちなど知らないで中途半端な励ましの言葉を並べて、どこか気まずそうに舞台を降りていくのだろう。
仕方なく見詰めている視線の先で男たちが演奏し、歌っている。
そうだ、俺は耳も遠くなっているし、目も随分悪くなっているのだ。
頭の中だけでなく、五感全てが古びて、ひとつ残らず働きが悪い。
音楽に乗って睡魔が俺に流れ込んでくる。
眠くなるのだけは一丁前だ。いや、人並み以上に眠気だけが強い。
ゆっくりと瞼が落ちていく。
「頑張れよ。」
刑務官に肩を叩かれて、わずかな荷物と、わずかな金を持って刑務所を後にする。
世間は随分と変わっている。見るものすべてが新鮮で緊張してしまう。
やっと出て来たのだ。
罪を犯してから故郷の家族たちとは連絡を取っていない。
しかしそんなことはどうでもよい。
一刻も早く彼女に会いたい。
娘さんだった彼女は今はもうすっかり大人の女性になっているだろう。
もしかしたら結婚しているかもしれないし、子供も産んでいるかもしれない。
それでもいい。一目彼女と会うことが出来たら俺はまた、やっていける。
こんなに長い時間が経ってしまったのだ、一目会えるだけでもいい。
贅沢は言わない。遠くから彼女の姿が見られるだけでも、よしとしなければならない。
俺は期待に胸を膨らませ、彼女の家に向かう。
ああ、こんなに変わっているのか。
彼女と歩いた道も今ではすっかり舗装されており、当時の面影はない。
俺も、変わっているのだろうか。彼女は俺を忘れているんじゃないだろうか。
彼女も変わっているかもしれない。
「こんな僕だけれど、いつかあなたと結婚したいんです。」
「あら、私にとってはあなたが日本一の人ですわ。こんな僕、だなんて言わないで。」
「しかしご両親は反対されると思いますよ。」
彼女が笑う顔がぼんやりと蘇る。
「逃げてしまいましょうか、私たち。」
記憶を頼りに彼女の家の前に辿り着いたが、勇気が出ずに何度も行ったり来たりしてしまう。
随分時間をかけた後に、やっとの思いで呼び鈴を押す。
追い返されるかもしれない。いや、それも仕方のない事なのだ。
それでも彼女と、一目でいいから、会いたい。
ああ、夢か。また目が覚めてしまう。
珍しく違う夢を見た。忘れたくても忘れられぬ記憶が夢になって俺を責める。
もう、どちらが夢で、どちらが現実なのか見分けもつかなくなりそうだ。
しかし夢の中の俺はいつも醜い老人だ。
身も蓋も無い年月を経たことだけは、明らかな現実なのだろう。
舞台の上で男たちがまた違う歌を歌い始める。
ああなんて、ざらりとして、優しい。
優しさ、長い間そんなものには触れていない。
また睡魔が俺を懐かしい記憶の幻に引き戻す。
期待と不安に高鳴る指が押した呼び鈴に答えたのは、かつての彼女の家の新しい住人だった。
家の住人はもちろん、持ち主も変わっていた。
彼らは彼女の名前すら知らなかった。
俺は来る日も来る日も、彼女を探し続けた。
なけなしの金を使い果たして、彼女の遠縁の家に辿り着いたのは、出所して4か月後のことだった。
遠縁に当たるという老女が案内してくれたのは、山の中の開けた場所だった。
「これはなんですか?彼女ここに来るんですか?」
唾を飛ばしながら必死に問う私に何も答えないまま、老女は黙って墓石の裏に回る。
訳が分からない俺は老女に促されるままに老女のそばに寄る。
老女が指さす先には墓石に彫られた恋しい人の名前。
俺は冷たい石にしがみつき、頬を寄せ、泣きじゃくった。
案内してくれた老女は、そんな俺を見つめていたがどこかに行ってしまった。
それから何日も、俺はそこから動くことが出来なかった。
飲まず食わずで墓石と昼夜を過ごした。
俺は空っぽになった。そしてただただ老いていった。
彼女を追う事すら許されないように思えた。
せめて夢の中でだけでも会いたい、良くない幻の中ででもいい。
生活の中にある隙間という隙間、どこを探しても彼女の片鱗すら見つからない。
日々に追い回されているうちに記憶は俺をせせら笑いながら遠ざかっていく。
仕事をすれば友人という寄る辺ができそうになり、街へ出れば新しい恋や女が目の前にちらつく。
金や家を持てば余計なものや思いが増えそうになり、俺の中にある彼女のための場所がどんどん狭くなっていく。
このままでは俺の中の彼女の面影すら、喪うことになる。
これはなんという名の刑なのか、俺をまだ目に見えない何かが赦していないからか。
その責苦から逃れるために、彼女の面影を守るために、塀の中と世間を何度も行き来してきた。
会うことも、言葉を交わすことも出来ぬと知ったあの日から、俺の中にある彼女の面影がすべてだった。
ああ、この歌は俺の中で限りなく薄まってしまった彼女を徐々に色濃くする。
彼女の小さな手や、彼女の笑った顔の質感やかたちを徐々に強くする。
何もない俺を、老いて、草臥れて、行き場も、明日への希望も無い俺の心を、癒そうとする。
「歌うのを、やめてくれ。」
どうかこのまま、お願いだから、このままで居させて欲しい。
大声を出したつもりだが、俺の声は誰にも届いていない。
立ち上がって、歌をやめさせたいのに老いて無能な俺は立ち上がれない。
彼女は死んでいた。
傷付いた心身の重みに耐えきれず、自ら彼岸の人となった。
傷付いたままの心を誰にも温めなおしてもらえぬまま、ひとりで彼岸までの川を渡った。
どんなに寒かったろう、心細かったろう。
愛した女が死んだことも知らなかった俺に、懐かしい記憶を頼りに涙を流す資格はない。
悪人のまま、血も涙も忘れたふりをして、心の安らぎとは無縁のまま死んでいきたい。
涙は止まらず、目を瞑ってもわずかな隙間から流れ落ちる。
俺が年寄りだからか、もう涙ひとつ止められない。
この世のものではない潮が、俺を乗せたまま引いていく。
「逃げてしまいましょうか、私たち。」
俺はやっと、彼女と一緒に逃げられるかもしれない。