おやすみなさい、私のプリンス − 個人的な殿下の記憶 -

4月22日(JST) 早朝3時44分

しょうもなく早い時間に目覚めてしまった。
なにやら変なソワソワ感、脳内の覚醒感覚というよからぬ症状に襲われていた。
再び眠ろうとしてどうあがいても、ダメだ。眠りに落ちることができない。
とにかく落ち着かない。
仕方なしにベッドに横たわったまま、毎日朝一に朝刊代わりで目を通すYAHOOトップページをチェックすることにした。

プリンス○×▲◇

プリンスという4文字は、自分の脳内では長い年月を経て文字ではない符号のような取り込まれ方をしていた。
その後に続く文字に、体内の血液が止まったような感覚をおぼえた。

“死亡”

死亡って? 何、死んじゃったってこと???!!!
少なくとも、すでに亡骸(なきがら)だけしか、存在してないの??

デマだろう。
きっとプリンスのことだから次のアルバムの宣伝のために悪い冗談をやらかしてるのに違いない。
彼は、ひとを驚かせたり喜ばせるのが大好きな性格だ。
コンスタントにアルバムを生み出し続け、ライブなどなんらかの形で聴衆の前に姿を見せるのも、それが原動力になっているといっても言い過ぎはない。
あの小さな身体は、サービス精神の固まりで出来ていた。

頭の中で独りごちながら、英文で検索をしてみる。
“PRINCE dead … 57”
英文のタイトルが飛び交っていた。
ありったけの英文読解力をふり絞りながら読み終える。
FacebookとTwitterをチェックするも、すでにレニー・クラヴィッツが悲しみのコメントを出していた。
そのまま寝ることもせず起きることにした。
息子と朝食をとりながら、テレビをつけると
「ロック歌手のプリンスさんが亡くなりました」
アナウンサーの機械的な声を聞いた時、改めて現実に引き戻され頭の中にはプリンスと私とのパーソナルな思い出が秒速で駆け巡った。
80年代、殿下全盛期の映像が流れたとたんに涙が止めどなく溢れ出す。

職場で仕事に就いても
なぜ?
どうして?
もしかして自殺?
一日中、頭は「なぜ?」でいっぱいいっぱいになっていた。

“あの頃”の記憶

初めてプリンスを知ることになったのは、ジャケ買いした『Purple Rain』(プリンス&ザ・レヴォリューション)を聴いてからだ。
1984年…
洋楽道にどっぷりとハマるキッカケを作ってくれたNさん(男性)は、その頃の筆者にとって師匠のような存在だった。
彼の洋楽の知識は広く深い。
ロック、ブリット、R&B、ファンクなどなどとにかくレコードをどれだけ聴いてるのか計り知れない情報量だった。
「プリンスって知ってます?」
おそらくNさんの好みからすると、苦手に違いない…
この手の類は、絶対聴いていないだろう。
「新しいアルバムですね?まだ聴いてないんですよ」
Nさんは、まるで夏目漱石の小説の中の“先生”のような話し方をするひとだった。
「うーん…わたしの中では『Controversy』を越えるアルバムではなかった…かな。プリンスは『1999』からなんか違う方向にいっちゃったんですよね。」
嬉々として貸した私の『Purple Rain』のLPを大きめのバックから取り出しながら、Nさんは言った。
地元の小さなレコードショップで取り寄せ、遡る形で『Dirty Mind』『Controversy』『1999』を聴いた。
小学校にビートルズを初めて聞き、以来エルトン・ジョンやホール&オーツ、Kissなどなどロックやポップスの洋楽を聴いてきた。
先にお話ししたNさんにソウル、R&B、ファンクの名盤を借りては知識量を増やしていった。
プリンスの音楽は、そのどれにもカテゴライズ不可能な特殊なものだった。
他のミュージシャンにはない、真似できない(!)彼独自の卑猥さ力強さ、時折メランコリックで繊細な一面も覗かせる…あらゆる事象とか感情がないまぜになったような音だった。
これを機に、プリンスという途方もない才能を持つカリスマに永きにわたりどっぷりと浸かっていくことになったのである。

カリスマであり、道化者だった

プリンスの死をいまだに受け入れられないでいる。
何の根拠もなく、殿下は少なくとも70歳くらいまでは元気でライブ活動をしているだろうとずっと信じていた。
「さすがにちょっと老けたかなぁ」
なんて思いながら、テレビかパソコンで動画を眺めている年老いた自分を想像していた。

ネットやテレビでは、連日彼の追悼番組が放送され紫(パープル)に埋め尽くされている。
キリストの生誕を中心にBC・ACと分けられているように、私の中では完全に“彼の存在していた時代”と“この地上から消えてしまった時代”とに分断されてしまった。

英文のいくつかの記事には、
「プリンスは酷い腰痛に悩まされていて腰の手術が必要な状態であったのに、宗教上の問題でそれができない状況にあった」
と目にする。
旧友のシーラ・E.は
「長年彼のトレードマークでもあったヒール靴で踊り続けたために、膝の痛みに悩まされていた」
と語っている。

若い頃から亡くなる直前まで、寝る間も惜しまずコンスタントに音楽を作り続けてきた彼は、ステージ上では孤高の人であり、道化者でもあった。
神のような演奏を聴かせつつ、時おりすっとんきょうな表情を見せたりエロティックな身振りもした。
何のためにこの世に生を受けたのか、プリンスは自分が果たすべき使命をしっかりと認識していたのだろう。
亡くなる直前も154時間働き続けていたそう…絶句した。
80年代、音楽雑誌のインタビューで確かに
「ボクはワーカホリックだから、寝ないで曲を作っている。すでに何千曲ものストックがある」
といった驚くべき発言をしていた。

NME Japan 『プリンス、死の直前に154時間連続で作業していたことが明らかに』

2000年中盤に入って多くの場ににこやかな表情で登場していた彼を、動画サイトなどで見るたびに涙がこみあげてくる。
『パープルレイン』のギター演奏を聴くたび、蘇るのは1986年9月8日、横浜スタジアムでのギター・プレイだ。
あの日、横浜スタジアムに到着してすぐにきこえて来たリハーサルの音『Anotherloverholenyohead』に興奮し、幕が開けてからの2時間。
夢のようなあの体験は一生消えないで残り続けるだろう。

プリンスが亡くなった日、ペイズリーパーク・スタジオに大きな虹が見えたという。

1990年に「ヌード・ツアー」で来日した時のサウンドチェックの様子…貴重です

※ 写真
すべてyoutube画面キャプチャー

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