人は死後、どうなるか – 白隠禅師と朝比奈宗源老師の考察

  by tamuzo  Tags :  

 五百年に一度と言われる傑出した臨済宗の禅僧である白隠禅師、そして、大本山円覚寺の二代前の管長である朝比奈宗源老師、このお二人は死後の人間のありようについてそれぞれの見解をもっており、それは一見互いに相容れないもののように表現されています。
 白隠禅師は、ご自身で作られたお経、白隠禅師坐禅和讃の中で「六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり」と言っており、輪廻思想を肯定しているのに対し、朝比奈宗源老師はその著書「佛心」の中で、人は死後、永遠の涅槃に入ると主張しています。これはどういうことでしょうか。
 私は二十五年超坐禅に親しんで来ましたが、その立場から申し上げると確かに因果応報というものはあります。ただ、それは人生経験を積んだ上で実感としてわかるもので、誰もが生まれた時から因果応報や輪廻転生があるとは思わないでしょう。つまり、子ども時代や仏教の教えを知る前に作ってしまった業は、本人でも責任が取れない不可抗力なのです。本人に悪気はなかったのですから、それをもって罪とするのは酷である、というのが朝比奈老師の主張ではないかと思います。つまり因果応報や輪廻転生を確信する前に行ってしまった罪は、たまたまそうなるしかなかったということです。この「たまたま」というところが重要です。
 私たちは悪事をたまたましてしまった。それが今の自分です。私自身もそうですが、人生にハンディキャップをもって生まれた人は、本人が罪深いわけではありません。たまたまそうなったに過ぎないのです。たまたまそうなのですから、エンマ大王に責められる筋合いもなく、死後は永遠の涅槃に入るというわけです。
 善人は天国へ、悪人は地獄へ、というのが因果応報です。
 従って、禅を離れて、例えば念仏により浄土へ迎え入れられるという教えは「方便」であり、因果応報こそが正しい仏教観だとする人も多いのですが、私に言わせると因果応報や輪廻転生こそが方便であると思うのです。
 かの法然上人も親鸞聖人も、たった十遍でも南無阿弥陀仏と念仏を称えれば、必ず極楽浄土に生まれ変わることが出来る、と申しております。また、白隠禅師も実は、同じ白隠禅師坐禅和讃の中で「一坐の功をなす人も、積みし無量の罪滅ぶ」と教えています。たった十遍の念仏、たった一坐の坐禅です。一生の中で、一度くらいはこれを行う縁を得る人は多いと思います。
 また、仏教には「回向」という考え方があって、自分の称えた念仏や、坐った坐禅の功徳を、成仏させたい人に送ることが出来るとされています。
 例えば祖父や祖母の成仏を願って、そのために十遍の念仏を称えれば、祖父も、祖母も、極楽浄土へ行くことが出来るのです。自殺した人のご冥福を祈って供養するのも同じです。
 このような回向という行為は、お葬式でお坊さんがしています。
 この回向をされる人を入れると、大部分の人が極楽浄土(涅槃)へ行くことが出来ると言えます。
 そう考えると、これはもう死≒極楽浄土と考えて差し支えないと言えるでしょう。ほんの少しの善事でいいのです。この世に生まれて、全く悪事をしない人がいないように(禅を究めた人でも悪事は行います)生を受けて全く善事を行わないで死んでいく人もいないのです。
 そして全ての人、人ばかりでなく全ての命に仏が宿っているという考え方に立てば、この成仏はペットにだって届くのです。
 私たちは因果応報で生まれたのではなく、たまたま生まれたに過ぎないのです。因果があるように見える、部分的には真実かもしれませんが、生を受けたことの真相というのは「たまたま」だったと私は思います。たまたま生を受けたのですから罪を犯すのにも限度があって、人は死ねば皆、極楽浄土へ行くことが出来ると考えるのです。
 その浄土、涅槃のことを朝比奈宗源老師は「佛心」と、こう呼びました。

画像:『写真AC』
https://www.photo-ac.com/main/detail/25216619

tamuzo

居士として参禅、坐禅歴二十五年超。どの宗教団体にも属さず、個人として月額二万円でメールによる禅の指導を行っている。信心に関することであれば、どのような質問でも受け付けます。[email protected]