自分だけのパワースポットを探しに

  by tamuzo  Tags :  

(写真素材:足成)

 はじめまして、tamuzoです。この度連載.jpへ寄稿をさせていただくこととなりました。よろしくお願い致します。
 まず自己紹介ですが、専攻は仏教学、特に坐禅。私は十七歳の冬にテレビで鎌倉建長寺の坐禅ロケを見て、ピンと来てその翌週に建長寺坐禅会へと足を運んだのが坐禅とのご縁の始まりでした。
 以来わけもわからずふらふらと約十二年間、無字という公案(禅問答)に透ってから約八年間、計約二十余年坐禅の修行をして参りました。
 坐禅の終着駅は「全肯定」です。あらゆることをプラスに感じることが出来る。その精神状態を「涅槃」というわけです。
 もっと平たく言うと「全てに感謝して合掌」という世界。
 しかしながら「涅槃」の状態を保つには六識(眼、耳、鼻、舌、身、意)の調和していることが必要です。
 例えば、目が潰れるほどまぶしかったり、鼓膜が破れるほどうるさかったり、ものすごい悪臭がした時など、当然ながら実際その場ではとても「ありがたい」などということは言えなくなってしまうでしょう。

 禅宗ではとても有名な老師に「大燈国師」という方がいらっしゃいます。
 この和尚は悟りを開いた後、自ら乞食の群れに入って二十年間生活していたのです。
 どのような悪臭や狂気、喧騒の中にあってでも、自分は悟り(=感謝の心)を忘れないで正しく心を保っていられる、そうなるまで二十年間かかったということです。
 これを「五条橋下二十年の聖胎長養(しょうたいちょうよう)」と呼びます。
 聖胎長養は別名「悟後の修行」と言われます。

 私自身も、師匠について禅を教わる、という次元は一応終わった身で、自分のための修行、聖胎長養をしなければなりません。
 これが終わらなければ本当の禅の修行者とは言えないからです。大燈国師の弟子である無相大師も九年間は牛飼いの群れの中で暮らしていたそうです。私も最低九年間は自分の修行、聖胎長養をして行きたいと考えております。

 さて、私は自分が悟ったなどと言っておりますが、本当に悟った人は悟ったなどとは自分では言いません。
 また、聖胎長養が必要であれば、それは自分に対する修行なので、このように連載を持つことも本筋からは外れてしまうはずです。
 しかしながら、人と何か関わりを持たなければ、決して生きて行けないのが人間です。なので私の投稿を読んでいただく皆さんは、私の修行を手伝って下さる方々、ということになります。
 炎上リスクのあるインターネットという喧騒の中にあっても自分の心を正しく保てるか。大変重要な問題です。
 私は今、満たされています。朝の掃除、そして昼食を済ませ、温かい部屋で午後のティータイム。
 こういう環境なら、窓辺のカーテンに映る鳥の影を見るだけで「ああ、ありがたい」と思えます。しかし、これが仕事中ならどうでしょうか。あらゆる状況で「涅槃=感謝の心」を保てるよう、自分に課題を課す意味で連載させていただきます。その中で何か皆さんのお役に立てる情報が配信出来れば、何よりのことです。
 
 さて、聖胎長養とはどのような環境でも悟りの境地に居られるということを指すと申しましたが、裏を返せば環境が整っていれば人は悟りに近い状態となれるのです。それが神社やお寺、または自然などの「パワースポット」と呼ばれるものだと感じております。
 坐禅や宗教に興味がない人も、自分だけのパワースポットを探すと心が晴れやかな気持ちになれるのではないでしょうか。

tamuzo

坐禅歴22年。お坊さんではありません。お悩み事などはお気軽にTwitterへご連絡下さい。

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