やはり「ISILも“普通”のイスラム教徒も根本は同じ」なのだろうか

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やはり「ISILも“普通”のイスラム教徒も根本は同じ」なのだろうか。

在日イスラム教団体『日本アハマディア・ムスリム協会』が、『シャルリー・エブド』の風刺画を転載した本を出版した出版社に対し、「宗教を侮辱する行為を断固として非難する」とするコメントを発表した。

『日本アハマディア・ムスリム協会』の声明(抜粋)
今回、第三書館が出版する本について知った時はすごく心が痛みました。私達は、全ての宗教、全ての預言者たちを尊敬するべきであり、お互いの感情に気を使うべきであると理解しています。そうしたなかで、宗教を侮辱するような行為に対して私達は、断固として非難します。

言論の自由は社会を発展させるのに必要だということにはなんの疑う余地もありません。しかしこの「自由」は宗教を侮辱するべきではありません。侮辱することは、道徳的にもいけないことです。

今のところマスメディアでは「“普通”のイスラム教徒まで刺激するのはマズい」という“配慮”からか、件の風刺画やイスラム批判を自主規制する論調が主流となっている。

だが、参考資料として件の風刺画の転載は必要だと考える人もいるネットの自由な言論空間では、この声明を「イスラム教のルールに従わないのは侮辱だから従え」という、在日イスラム教徒の傲慢な意思表示として受け止めた日本人も多かった。聖人を描くことがイスラムの教義で禁じられているとはいえ、表現の自由が認められている日本において、何が侮辱で何がヘイトかを考えさせるための資料の転載すら認めないというのは、いささか狭量すぎやしないだろうか。何せここはトイレの神様とか貧乏の神様なんてものまでいて、それらすべてが昔から普通に絵に描かれたり、今だと“薄い本”に登場したりもする国である。ある特定の宗教の象徴だけを殊更丁重に扱えと求められても、それは受け入れがたい。幸いと言うべきか、これまで日本人はイスラム教徒との接点がほとんどなかったが、今回の声明を見て、頑なに唯一神を崇め続ける“敬虔”なイスラム教徒と日本人は非常に相性が悪いことに気付いてしまった人が多いのではないだろうか。

そもそも多神教への明確な敵意が記述された『コーラン』を素直に読めば読むほど、イスラム教の教義自体が独善的で異教徒に対する暴力性をはらんでいると思わざるをえない。『コーラン』で多神教徒の扱いについて記された最も有名な章句である9章5節には「多神教徒は見つけ次第殺せ。ただし、イスラム教に改宗し義務を果たすなら許せ」という主旨のことが書かれているが、これが原理主義と結びつくと恐ろしい結果を招くことになるのは明白だ。ISILの支配地域では今まさにヤジディ教徒の虐殺が起こっているし、異教徒を拉致して強制改宗を迫る事件もイスラム国家の各地でしばしば発生している。ISILの構成員には、移民・難民としてヨーロッパ各国に流入し、現地に溶け込まず独自のイスラムコミュニティを形成して“敬虔”かつ“普通”に暮らしていたイスラム教徒の二世・三世が多く合流しているという。イスラム教を擁護する人は「イスラム教は“本来”寛容な宗教だ」と決まり文句のように言うが、“実際”に世界各地で起こっていることを見ると、テロ組織であるISILに限らず、今のところは穏健派とみなされているイスラム教徒も容易に危険な過激派に転びうる恐れがあるのではないかという疑念を拭い去れない。

そこで日本人が「イスラムの教義は多神教徒を侮辱しているから修正しろ」と要求したところで、まず間違いなく彼ら“敬虔”なイスラム教徒は聞く耳を持たないだろう。自分たちの神は厳格に守ろうとする一方、他の宗教の神々および信徒への配慮はしない。民主主義国家の法に馴染まず、イスラム法に則った独自の生活を重んじる。これではイスラム教徒全体が押し付けがましく傲慢だと思われても仕方がない。

日本人は宗教に関して無頓着すぎるとよく言われる。かといって虚無主義的な無宗教者でもなく、緩い信仰心を保ちつつ、まずまず社会規範を守って暮らしてきた民族だ。イスラム教に支配された中東・アフリカ諸国よりもおおよそ豊かで治安も良い、民主的な先進国として認められている。

民主国家では、人々を従わせる権力のある政治はもちろん、非合理の塊でありながら権力と結びつきやすい危険な側面のある宗教こそ常に自由な批判に晒されなければならない。日本国内では自由な宗教批判が可能な一方で、モスクの建設を認めていないわけでもないし、信徒の勧誘を禁じているわけでもないし、コーランの出版をすることもできる。信教の自由は保障されている。それで十分ではないか。己のすべてを委ねて帰依できるほど素晴らしい宗教ならば、無知な不信心者になんと言われようと鷹揚に構えていればよいのだ。

『シャルリー・エブド』の風刺画は確かに下品で低俗かもしれない。だが風刺と侮辱の間の線引きは誰のどんな価値観をもってするのか。あの風刺画を見て、「その通りだ、面白い」と感じる人もいるのだ。「俺が侮辱だと感じるから禁止」という理屈は通らない。高尚で公益に資する言論だけが認められる社会は不自由だ。ロクでもない言論こそ守られなければならないのが言論の自由というものだろう。「鬼神を敬してこれを遠ざく」「触らぬ神に祟りなし」と言うが、また同時に日本は「鰯の頭も信心から」ということわざもあるように、「お前の拝んでいる神様はおかしいよ」と言ってやることもできる、言論の自由がある国なのだ。「シャレにならない反応が起こりそうだからやめておこう」などと“配慮”をする者は、意識・無意識はともかく、テロリストの“抑圧”に手を貸す愚か者である。だいたい、1000年以上も昔に生きていた「ターバンを巻いたおっさん」の絵を描いたからといって、具体的に誰がどんな被害を被るというのか。

あるいは大方の日本人のそんなテキトーな宗教観が気に入らないというイスラム教徒がいるのなら、日本人の口を封じる方向に行動するのではなく、多神教を信仰することによって“堕落”した日本社会を批判し、みすぼらしい貧乏神やトイレの神様をバカにした風刺画でも公開してみてはいかがだろう。自由主義者が信奉する「言論の自由」に対する風刺でもいいかもしれない。恐らくほとんどの日本人は笑って“寛容”に受け流すであろうが。くれぐれも暴力に訴えることだけはカンベンしてもらいたい。

画像引用:『日本アハマディア・ムスリム協会』公式サイトより
http://www.ahmadiyya-islam.org/jp/[リンク]

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