実は首都圏もギリギリだった?震災直後の東海村原発の記録

  by 松沢直樹  Tags :  

東海村原発から約2キロの地点(2011年5月5日)
福島第一原子力発電所の汚染水処理が問題になっている。タンクに貯蔵していた高レベル放射性廃棄物質を含む汚染水が漏れてしまう事故が発生したが、一刻も早く収束することを心から願いたい。

東日本大震災にともなう福島第一原発事故の問題は、時間が経過するに連れて関心が薄れがちになっているような気がする。3.11の震災によって発生した原発事故は、けっして他人事ではなかった。同様の規模の震災にみまわれれば、首都圏や、日本全国にある原発周辺の地域でも、同じような事故に遭遇した可能性がある。

 

東海村原発は大丈夫だったんだろうか

首都圏に住む私が震災直後に心配したのは、東海村原発の被災状況だ。メディアでは、鹿島灘を下った津波が、大洗港などに被害を与えていることが報道されていた。そのことからすれば、さほど離れていない東海村原発が津波被害に遭った可能性は否定できない。もし、首都圏にもっとも近い東海村原発が被災していたら、首都圏自体も危険な状態に陥る可能性が高い。東海村原発自体、98年に商業利用は終わっているが、今後数十年かけて解体作業を進めることになっているため、震災による事故は起こりうる。
残念なことに、マスコミの取材は、福島第一原発や東北地方に集中しており、東海村原発に関する信頼性の高い情報はなかなか出てこない。

そのため、個人で東海村へ取材に向かった。ガイガーカウンターすら入手できない中で、目に見えない放射線について検証しなければいけない原発事故を精査するのは非常に難しい。結局、原発や原子力関連施設の被災について明確な証拠を拾えなかったため、取材データを今まで放置していた。取材日は、2011年5月5日だから、震災発生から1カ月後ほどの時期だ。
改めて写真を見てみると、首都圏もギリギリな状態だったことが見えてくる。

 

震災で屋根が広範囲にわたって壊れたJR東海駅(東海村原発の最寄り駅)
東海村原発がある茨城県のJR東海駅は、上野から電車で1時間ほどだ。
草木の緑が目にまばゆく、駅のホームから見える景色からは、原発がある街とは思えない。非常にのどかで、取材ではなく、ピクニックにでも訪れたような錯覚を覚える。だが、改札の外に出ようと階段をあがってみると、震災が残した爪跡を目の当たりにすることになった。
「屋根はどうしたんですか?」

改札を出た後、駅の売店でお茶とパンを買いながら、レジのおばさんにそれとなく尋ねてみた。

「ああ、これね。この前、大きな地震があったでしょう? あれで屋根が壊れちゃったのよ。あなた、ここの人じゃないみたいだけど、どこから来たの?」

「東京です。」

「あっちは、大丈夫だったの?」

「それなりに揺れましたけど、大事にはなってないですね。」

「良かったわね。今日は遊びに来たの?」

「はい。お寺さんに参拝した後は、大洗のほうにでも遊びに行ってみようと思いまして」

取材が目的で訪れたとは言わなかった。街全体が、原発に関連する産業に携わっている人がいるわけだから、客観的な情報を得るためにも、自分が東海村に訪れた目的は、できるだけ誰にも告げないほうがよいと思ったからだ。

買い物を終えた後、改めて駅舎に出てみたが、相当揺れたのだろうなということがよく分かる状態だ。至るところに補強材と足場が組まれており、屋根の修復を行っている。午前10時だというのに、真っ暗な場所もある。

屋根を修復中のJR東海駅

 

駅を出て、まず取材に向かったのは、JCOだ。
1999年には、核燃料加工作業中に臨界事故を起こして、首都圏自体に緊張が走る事態になった。今回の震災で何か変化が起きてないだろうかと考えたのだが、工場に近付くにつれて心配は増した。

JCOから1キロも離れていない地点にあった石材店の駐車場に置いてあった石灯籠が見事に倒壊していた。この大きさの石灯籠が倒壊するとしたら、相当揺れたのだろう。

再び、工場に向かって歩いていくと、道路の途中にある電柱の上部が見事に歪んでいた。

これだけ揺れたのに、本当に原子力関連施設は大丈夫だったんだろうか。

ガイガーカウンターが入手できればよかったのだが、震災直後は、今のように安価ではなく、また入手困難だったため、とうとう携行できなかった。空間線量を調べることができなかったのは残念だ。

手元の携帯のGPSで、地図を確認しながら、道を進む。
以外なことに、JCOは、住宅地に隣接した場所にあった。壁越しに施設が見える場所に移動して写真を撮ってみたら、外壁にうっすらとヒビが入っているように見える(有刺鉄線と重なるあたり)が、大丈夫だったのだろうか。(ちなみに、JCOに電話取材してみたが、回答はなかった)

 

いったん、JR東海駅に戻って、今度は、東海村原発へ向かって歩く。駅を出たとたんに、道路におかしな模様があるのを見つけて首をかしげた。近寄ってみると、ヒビをアスファルトで補修してある。写真でも分かるように、相当の距離に渡って修復されている。近隣の方に聞きこみをしてみたが、いつごろこの修復が行われたのか明確な答えは得られなかった。

震災によって起きた道路の破損の修復を自治体が急いだのだろうかと思ったのだが、道を進むにつれて、近隣への聞きこみ取材を続ける必要がないと思うに至る状態が見つかった。

東海村原発から2キロほどの地点。歩道の右は、水田で地盤が緩いのか、道路自体が、地すべりを起こしているような状態らしい。

「そんなことないと思いますよ」という不思議な雰囲気

災害や事故の取材を行う際に重要なのは、客観的な証拠を得ることだ。今回は、目に見えない放射線による被害を調べるわけだから、ガイガーカウンターなどの計測器を持参できなかったのは、致命的だ。

電話取材で、東海村役場や、東海村原発を管理している日本原子力発電株式会社(げんでん)に、取材を申し込んだが、事故の可能性については、否定された。

もっとも、事故が本当に起きていないのであれば、当然否定するだろうし、大規模な事故が起きていれば、同様に否定する可能性がある。

したがって、あまり取材を重ねてもあまり意味がないと、当初から考えていた。その中で、気付いたことがある。原発や原子力施設関連関係者に限らず、街の人まで、極めて楽観的な意見が多いのだ。

東海村で出会った様々な人に、震災にともなう東海村原発の事故の可能性と、今後もし同じような震災が発生した場合、福島第一原発のような事故に至る可能性がないかということについて尋ねてみた。

ほとんどの人からは、「そんなことはないと思いますよ」という回答が返ってきた。何かを隠す後ろめたさが潜む話しぶりがまったく見られないことをみると、生活している中で、危機的な状況が起きていることを感じる情報が入ってくることはないのだろう。

それだけに、東海村役場が、30分おきに放送している内容が気になった。

東海村の空間線量が上昇しているのは、福島第一原発の事故の影響で、健康に影響はないという内容だ。
2011年5月5日の時点で、首都圏に福島第一原発から放出された放射性物質が到達することについて、政府や自治体が積極的に広報していた記憶はないし、また、首都圏のメディアがそのことを報道していただろうか。私は印象にない。

東海村役場は、混乱を防ぐために放送していたのかもしれないが、街の人達がほとんど気にしていない中で、繰り返し聞こえてくるこの放送は逆に気になった。

※取材中に、録音した東海村役場の放送のMP3データは私のホームページにアップしてある。時間があれば聞いてみてほしい。放送内容のMP3

 

地図に沿って東海村原発の敷地周辺を歩いてみたが、改めて震災の影響を見ることになった。これだけの震災の影響を受けながら、事故が起きなかったとすれば、幸運だとしかいいようがないようにも思う。

 

原発敷地のフェンスの一部は倒れかけていて、ロープで木にゆわえて支える応急処置がされていた。

 

モニタリングポストと呼ばれる 空間に漂う放射性物質を計測する施設。有刺鉄線越しに見る感じでは、被災の影響はみられず、きちんと機能していたようだった。

 

原発敷地から一番近い民家は、瓦が落ち、ビニールシートで養生している家が目立った。近隣の川の河口は、海水が遡った後が残っていた。地元の方がいうには、河口も波が入ってきたという(鹿島灘を下った津波の余波だろう。かなりの水で、木が倒れてしまったらしい)。つまり、鹿島灘に面している東海村原発が被災する可能性はゼロではなかったということになる。

福島第一原発事故は、地震や津波などの自然災害の想定が甘かったため、被害が拡大してしまったとされている。原発の存続問題が議論されている。仮に廃炉を選ぶにしても、作業が終了するまで数十年の時間が必要と言われる。その間に、今回のような地震と津波をはじめとした事故が起きるリスクはゼロではない。

こういったことも考えて、私たちは原子力と向かい合わなければならないことを、もう一度議論するべきだろう。

松沢直樹

福岡県北九州市出身。主な取材フィールドは、フード、医療、社会保障など。近著に「食費革命」「うちの職場は隠れブラックかも」(三五館)」近年は児童文学作品も上梓。連合ユニオン東京・委託労働者ユニオン執行副委員長