やしきたかじんと眞鍋かをり「AKBはクラスで28番目、ビリくらい」

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昨年1月末の食道がん告白以来、1年2カ月ぶりにテレビに復活したタレントのやしきたかじんが、この23日に放送された『たかじんNOマネー』(テレビ大阪)の中で、AKB48に対して「クラスで28番目くらいの可愛さでしかない」旨の発言をし、ネット上で様々な反応を呼んでいる。番組中、そのコーナーに与えられた時間は短く、番組のトークは確かにまとまりのないものになってしまっており、ある部分、その場の“ノリ”だけの発言のようにも見える発言なのだが、結論から書いてしまえば、これは安易なAKB叩きとは、少し趣(おもむき)の違うものがありそうだ。

同番組において、制作側の意図として“AKB48”のお題目がたかじん氏に与えられるのであるが、コーナーの冒頭、たかじん氏はAKB48が好きではないことを真っ先に宣言し、コメンテーターの一人から「AKBの何がいけないのですか?」と振られると、即座に「団体過ぎる」と答え、続いてアシスタントの眞鍋かおりとのやりとりのなかでタイトルの「28番目か、ビリくらい」の発言になるのであった。そして別のコメンテーターから、たかじん氏がキャバクラとクラブではクラブの方が好みであることを明かされたの受け、「集団で攻めて来られるよりは、一人一人の資質を重視したいからね」という発言で、AKB48の話には区切りをつけてしまうたかじん氏であった。

そしてたかじん氏は「AKBの話に行く前に」と切り出し、今のテレビ界の現状として「上がいるから下の人間が育ってこないのか、下の切磋琢磨のできていない奴が多いから新しい奴が出てこないのか、ここの部分が解り難いのではないですか?」という形で、番組のコメンテーター陣に疑問を投げかけるのであった。そこでレギュラーコメンテーターの一人、水道橋博士が「若いタレントが上の人の“首”を取り行こうなんて風潮は、全くないです」「世代的にそういう争いを全くしないから」という発言があり、フリートークの方向が決まっていく。

その後、話は「下の世代には厳しさが足りない」のようなどこかで聞いたような話になっていくのだが、たかじん氏はおもむろに「賞という一つの権威を与える事によって(おそらくM-1グランプリのことと思われる)、それがいかにも全て面白い(芸の実力)みたいにやってしまうテレビ局も、これが間違いちがうか?」と、発言するのであった。加えて、タレントを扱う方法として「若い芸人を集めた番組には面白い番組もあるんだし、そこから生き残って上に行く、という加算式がない」ことに問題があると発言するのである。やがて話は“ひな壇芸人”の話になっていくのだが、たかじん氏は“ひな壇芸人”はもう断ってるという水道橋博士に対して「(やるの)絶対やめてやー、そんなもん」、と振った上で“ひな壇芸人”は「(芸として)やりようないから、もう肛門の話をするしかなくなる」という流れでコーナーは佳境に入っていく。

一見、AKB48とは関係のない話のようで、しかし、じっくり聞いていると、そこには本物と、そして本来は本物の”前段階”であるはずの未熟な状態のものの差を、曖昧にしてしまっても何の疑問も抱かなくなってしまった、テレビ局も含めた今の社会に疑問を投げかけたかった、たかじん氏の意図が伺えるのではないだろうか。

たかじん氏の「M-1グランプリで優勝したくらいで本物扱いするのは大間違い」旨の発言は、M-1グランプリのようなコンテスト形式のものは、往々にして特定の条件の中でのみ評価の基準が有効になる性質をはらんでおり、特定条件がなくなってしまえば、それは単に未熟でしかないものになってしまうケースも多い。それはある部分、実社会における“偏差値教育”における人物評価基準の欠点にも通じる話でもあるのだが、それはAKB48の社会における人物評価基準と重なる部分もあると思われ、それでたかじん氏は番組から振られたAKB48のお題目に対して、上記のような反応になったのではないかと筆者は想像するのだが、これは深読みのし過ぎであろうか。

もちろん、番組の中のやりとりだけではたかじん氏の言いたかったことは想像するしかないのであるが、「AKB48を面白がっている間は、日本で本当に面白いものは育ってこない」という氏の懸念は、充分に伝わるのであった。

その芸風から、関西圏と関東圏では好みの別れるたかじん氏ではあるが、今回の復帰を喜んでいる人も多いようだ。何はともあれ、やしきたかじんさん、職場復帰おめでとうございます。

東京の音楽業界の隅っこで仕事をしてきました(インディーズアーティストのもろもろ、ゲーム、ラジオの音楽制作、専門学校講師等)。2014年から某楽器メーカー勤務。

Twitter: ilandcorp