真似をされない『なごり雪』

  by あらい  Tags :  

技術的な話を少しすれば、売れる楽曲には大体、普通の人が特徴として認識できるある種のパターンが存在しているものです。音楽の要素の中から普通の人が「いい感じ」と反応できる特徴を抜き出すことができれば、その再生産、大量生産が可能になるのも、音楽の一つの側面ではあります。そういった売れた楽曲をモチーフにして、その特徴の抽出、抽出された特徴による楽曲の再生産、そしてその大量販売をやってきたのがハリウッドビジネスを筆頭とした、世界のエンターテイメントビジネスのやってきたことでもあります。日本でも、近年では小室さんの曲やビーイングの曲等、その特徴だけを抜き出して再生産、大量販売を行なってきた業界の営みは、記憶に新しいと思います。

ところが『なごり雪』という曲のメロディーには、この再生産を目的とした要領で抜き出せる顕著な特徴がないのです。この曲のメロディーはとても地味なものであることには間違いなく、それを楽器で弾いてみただけでは、言葉と合わせて聞いた時の広がる世界の半分も表現されない類いのメロディーではあるのです。それでもこれだけ多くの人に、「これは名曲だ」と認知させる力があるのが、この曲の突然変異的な要素なのです。もちろん、それはこの曲の響き方がメロディーとして存在していると言うよりは、言葉の響きとの絡みで存在しているものだから、ということだと思いますけど、それにしてもこの言葉の響きと音程の抑揚の組み合わさり方は、とても意図して生み出せる組み合わさり方ではないと、筆者もそうですけど、日本語で音楽を作る経験のある人なら、誰もが感じるところなのではないでしょうか。この曲を作曲した伊勢正三さんも度々インタビュー等で語っているのですが、作った本人すらもどうすることもできない魔法の組み合わせが、この曲にはあると思うのです。

また、この曲を出てきた時代と照らし合わせてみても、その突出した“普遍性”に、改めて驚かされるかもしれません。この曲がイルカのカバーで大ヒットをした年が1975年なのですが、この年の日本レコード大賞の大賞受賞曲は『シクラメンのかおり』だったりします。『シクラメンのかおり』は、『なごり雪』と同じ当時の新興勢力だったニューミュージック界の小椋圭氏の作品ではあるものの、当時絶対的な勢力を保った昭和の歌謡曲の再生産的な要素を充分に持った音楽であり、戦後からのレコード大賞受賞楽曲を順に辿れば解るのですが、それはそれまでの流れと同一の流れと認識できる音楽ではあるのです。当時の音楽業界の中で中心的な存在であった、そういった昭和の臭いがを持たない楽曲を探すのが極めて困難であるにも関わらず、『なごり雪』はそういう昭和の特徴的な臭いの殆どを持つ事なく、忽然(こつぜん)とその時代に現れているのです。これはこの曲をカバーしたイルカの歌唱に拠る所も大きいのですけど、それにしても『シクラメンのかおり』に昭和の臭いが付き過ぎて、今『シクラメンのかおり』をカバーしようという人が中々目立ってこないことと比べると、『なごり雪』の色づけのない普遍性が、いかに時代を遥か彼方に置き去りにしてしまえる程、突出したものであるのかが窺い(うかがい)知れると思うのです。

末端ながら、音楽に関わってきた者として筆者に言えることがあるとするなら、『なごり雪』は、「音楽の神様」の“悪戯”のような気はするのです。これは、とても人知の及ぶ楽曲ではないと思います。流行歌に関して人知の及ぶものは、同じ時代の代表曲なら『シクラメンのかおり』であり、『なごり雪』はそれとは対称的な作品ということになるのではないでしょうか。

もはや人知の及ぶ範疇の中でしかない音楽しか世の中になくなってしまった今、仮に世間が人知を尽くした音楽に飽きてきているのだとすれば、今、人知の及ばない音楽が改めて話題になるのも、納得のできる話なのかもしれません。ただ、日本の音楽業界が第二の『なごり雪』を目指すなら、それは人知の及ばない音楽であることを充分に理解し、それは「音楽の神様」に降りてきて貰うことを目指すしかないという、途方もない話になるとは思います。そして「音楽の神様」は、少なくても筆者のように「いらんことをぐじゃぐじゃ考えてます」、というような人には(経験的に)降りて来ていないと思うのです。もっと純粋で天然で音楽とだけ戯れて無邪気に人生を無駄に過ごせる人にしか、降りて来ていないと思うのです。そういうものを「育てよう」と考えられて、尚かつ金銭的な余裕のある人が今の日本にいるのかと言われると、中々難しいものはあるのかもしれません。

日本の音楽業界に限らず、それが世界の音楽業界であっても、もはや売れる楽曲の特徴の抽出、抽出された特徴による再生産、その大量販売、というガチガチの流れで動いています。そしてスーザン・ボイルのような、日本人が見ても「こんなんでいいの?」と言われてしまうような音楽が、成功してしまう訳です。失礼を承知で書いてしまえば、スーザン・ボイルでいい、というなら日本でだって世界で通用する音楽を作ることは、充分に可能です。「こんなんでいいの?」という文化なら、日本には何と言ってもニコニコ動画があるではありませんか。「こんなんでいいの?」の戦いになれば、ニコニコ動画だって世界に負けてはいませんよね。ただ、それを目指すならあくまで『なごり雪』を作る行為とは真逆のことを、“人知を尽くして”挑戦していくしかないのだと思います。

……と、皮肉のようなことを書いてみましたが、今、社会の空気として支配的なものとして、再生産を目的とした要領の抽出に成功した者が「勝ち組」として鼻高々としている、のような風潮もある訳ですが、それはそれで偏り過ぎると滑稽なことにもなりかねない側面は、間違いなくある訳です。『なごり雪』はそういう価値観とは正反対の所で生まれる文化が人間の営みにあることを、そしてそれが相変わらず社会の中で価値を持ち続けていることを、私たちに思い出させてくれるのかもしれません。

東京の音楽業界の隅っこで仕事をしてきました(インディーズアーティストのもろもろ、ゲーム、ラジオの音楽制作、専門学校講師等)。2014年から某楽器メーカー勤務。

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