THE・河童

  by たかし  Tags :  

初めての投稿で緊張するたかしです、どうもこんにちは。

 

さて、初めての記事ネタに選んだのは老若男女知っているであろう妖怪河童です。昔の日本ではそこかしらで見かけられたらしい妖怪、今日ではすっかり話を聞かなくなったので寂しく思い、書いてみることにいたしました。決して時事系のネタに疎いだとかそういうことはありません。

wikipedia先生によると河童は「大まかに分けて亀人形態と類人猿形態があり、前者は背中に甲羅、後者は全身が毛で覆われている。くちばしや水かきがある。頭の上の皿はあることが多いがない個体もおり、皿が割れると死亡したり力を失ったりする。基本的に川や沼に住んでいるが、酒飲み河童と呼ばれるものは海に住む。好物はキュウリ、魚、果物。相撲が大好き。九州の河童は人間の歌や落石音等をもの真似する。また、水に人を引き込んで殺す、尻子玉と呼ばれる架空の臓器を引きぬいてふぬけにすることがある」だそうです。

私としては亀人のイメージばかりあり、甲羅のない類人猿形態が存在しているなんて思いもしませんでした。そして頭の皿。どうもない個体がいるようで、だったら二足で立ってる猿か亀じゃねえかと言いたくもなります。

実際、河童の存在に疑問を持つ人々も江戸時代からいたようで、『氏家幹人 (2005). 江戸の怪奇譚 講談社出版』には「江戸時代にも、河童の招待は猿かカワウソ、あるいはすっぽんか鳥の一種ではないかと疑う人がすくなくなかったようです」と書かれています。目撃例が山ほどあったからこそ、捏造して有名になろうとしてるんじゃないだろうかと疑う人もいたんでしょうね。

しかし、果たして平常心を持った人間が猿等の動物を河童と間違えるでしょうか。描かれるような河童はどれも”まさに河童”なものばかりで、二足あるいは四足で歩いて、相撲をとって、くちばしがあって皿があって…なんて、そのような”間違えそうな”動物は現代でも(私の知る限りは、ですが)確認されていません。

江戸時代ともなれば、ある程度人間と自然は分離されているとはいえまだまだ接する機会は多かったと思います。コンクリートがあったわけでもなし、巨大な建築物が立ち並ぶ必要もなかったわけですからね、今みたいに自然を破壊する必要もなかったように思えます。お隣さんが自然さんなのに見間違える…人間同士でもたまに間違えて話しかけたりなんてありますが、相手を宇宙人と間違えたりはしないでしょう。頭が禿げ上がっていて皿を被っているように見えなくもないなにかしらの動物を、その動物のことを知らない者が見たとして未知の動物と間違えることはありましょうが、二足あるいは四足で歩いて相撲をとってくちばしが…あげく人間の歌まで真似してなんて、河童でなければなんだというのでしょうか。身近でないからこそ”妖怪”、まったくの未知であるから”妖怪”。ならば河童は本当に”いた”と考えてもいいのでしょう。

いやいやしばしお待ちを。上でも引用させてもらった『氏家幹人』氏の『江戸の怪奇譚』には別のことも書いてありました。

「すくなくとも河童と呼ばれた”妖怪”の一部は、貧困、虐待、発育不全、奇形など、何らかの理由で家にいたたまれなくなった幼少年たちではなかったかと憶測するに至ったのです」

動物の見間違えについてばかり考えていた私は衝撃を受けました。今ですら差別やらなにやらが存在するのです、昔は他の人とちょっと違うところがあっただけで殺されたり迫害がおこなわれたりしていたそうですから、貧困や虐待だけでなく発育不全や奇形で家を出た子達もいたことは確かでしょう。氏はこの子らが集まって遊んだり、食事をしたり、生きるために生活している姿を見た人々が河童と間違えたのではないだろうか、と書いています。なるほど、遊ぶためになんら下準備のいらない相撲、なにかを背負っていれば甲羅、口になにかつけていればくちばし、人間にはなんだってそれっぽいことができます。偶然にせよ必然にせよ、子供たちが河童を真似することはあったのではないでしょうか。

無論、なにをしたって人間は人間です。上で動物を見間違えないだろう常識的に考えてとか書いておいて、普通の思考状態でこれを見間違えるとは書けませんし、思いません。

が、条件を絞ってみます。河童というものがまだ世に出ていなかった時代。目撃例なんかも1つもなく、河童という言葉すらできていなかった時代です。例えば橋の上をAが歩いていて、そいつに恨みを持つBが急に橋下にAを引きこみ殺そうとしたら、まず間違いなくAはパニックになります。私も溺れかけた経験がありますが、なにがなんだか分からず、景色が歪んで見え、ただただもがくだけとなりました。そんな中、引き込んだ人物が誰であろうとまともに見えはしないでしょう。おぼろげに映るそいつの頭は禿げていた気がして…なんて、そう、これだけで河童ができあがります。命からがら助かったAはきっと親しい誰かにこの恐ろしい体験談を話すでしょう。まるで妖怪のようだった、とでも言えば完璧です。

あくまで私の妄想にすぎませんが、始まりが”まるで妖怪のようだった”でも、そこに河童という名前がついて妖怪化すればあとはどうとでもなります。水辺で相撲をとっていた先述の子供たちを見た大人が「もしやAを引きずり込んだのはあいつらではないか?」と疑り、差別的な意味を込めて河童と呼びさえすればもう相撲が好きな河童が出来上がります。差別表現だと知っている人からすれば河童は人間なのでしょうが、知らない人が聞けば「あぁ河童という妖怪は相撲が好きなのか」となってしまいます。尾ひれなんて簡単に付くものなんですね。妖怪とは恐怖という付加価値があり、一度それがついてしまえば、妖怪河童は動物の見間違えでもありうるようになるかもしれません。実際、セイウチは元々UMA(未確認生物のこと。有名なのはネッシー)扱いされていたそうで、見たものを恐怖させたとかなんとか。例え河童にそれほど似ていない動物だったとしても、それっぽい行動を見ただけで脳内で変換してしまい、姿をよく見ることもなく逃げてしまうこともあった…とも考えられます。

はてさて、尾ひれが実体を持ち架空妖怪河童は今に残る姿になったのか、本当に妖怪河童は存在したのか…引用したところ以外、私の意見は所詮妄想にすぎないですし、結論を出すことはできません。物は言いよう、過程なんて無限に作れますからね。私としてはおもしろそうなので妖怪、河童に存在してほしいところですが、皆さんはどうでしょうか? 存在議論は置いておくにしても、少しばかり思い出してみるのもいいものではないでしょうか。