蓮實重彥+岡田秀則 対談〜スマホ時代の映画体験

*この記事は立東舎Webの人気記事 http://rittorsha.jp/interview20160927-1.html からの転載です。

すべての映画は平等である 映画保存のエキスパートが明かす、《物質》面から捉えた映画の新しい魅惑

キネマ旬報 映画本大賞2016の第一位を受賞した、岡田秀則氏の著書『映画という《物体X》』(立東舎)。ここには、岡田氏と蓮實重彦氏による対談「シネマテークの淫靡さをめぐって」が収録され、シネマテークやフィルム・アーカイブについて語られていますが、実際の対談ではそれ以外にもいろいろ興味深い話題が展開されました。今回は、『映画という《物体X》』には未収録の貴重な対談「スマホ時代の映画体験」を公開します。

映画的な記憶

岡田 先ほどシネマテークの淫靡さということが話題に上りましたが(『映画という《物体X》』所収「シネマテークの淫靡さについて」参照)……。

蓮實 すべてが明るくなってしまったのは、これは仕方がないことだと思うんです。とにかく、ポケットに映画が入るということが二度起こったわけです。一度はVHSとして、それから今はスマートフォンとして。では、それで何が失われ、何が獲得できたのかということは、ずいぶん大きな問題だと思います。とにかく、スマホでも映画が撮れる、と。実際に(ジャン=リュック・)ゴダールなんかは、スマホで撮っているわけでしょう。それはそれで良いのですけれど、「誰でもができること」になってしまった時に、どうするのか。「誰にもできないことを、どうするか」ということが、いま誰にも分かっていないんです。

岡田 誰でも映画を撮れるようになったときに、誰が映画を作ってもよい人なのか、という問題ですか。

蓮實 やはり「映画が好きで好きで……」というのではないけれども、その人が撮ると、まさにそれが映画になってしまうというケースがあるわけです。例えば、これは藝大ですけれども、横浜ではなく本校の方を出た小森はるかという人がいます。あの人は、撮れる人でしょう。

岡田 私の見た限りですが、確かにそうですね。

蓮實 どうして、こんなに……というほど、画(え)になるんですよね。何をやっても画になるわけです。ああいう人が出て来てしまうんですよね、撮れちゃう人が。

岡田 シネフィル的な「映画の記憶」とは切り離されたところから現われて、あれだけの画面を撮れてしまう人、ということですね。

蓮實 映画的な記憶ということで言えば、三宅(唱)君はそれに満ち溢れているような人じゃないですか。それから、『ハッピーアワー』の濱口(竜介)さんだってそうです。こういう人達が出て来るのは、「ことによったら、時代遅れなのかなぁ?」と思いつつ、「分かる」わけですね。「映画に何らかの形で足をすくわれてしまって、そこから逃げ出せなくなったけれど、逃げ出す以上のことを自分はしてやるんだ」という感じの人がいるけれど、小森はるかさんはそれとは違うんですね。

岡田 なんか本当に、独りで映画を発明したようなところがありますよね。

蓮實 そんな感じがあります。

劇場で映画を見る意味

岡田 今はスマホで映画を撮影できるし、スマホで映画を見れる時代です。そんな中でも、劇場で映画を見る意味はあるとお考えですか?

蓮實 自分より見ているものが小さいと、軽蔑が働くんです。だから自分より大きいものだと、軽蔑がどこかで削がれるわけです。ですから、大きなスクリーンで見なければいけないと思いますね。それから、小さいものというのは、解像度の問題もありますけれど、やはり絶対に見えないものがあるんですよ。

岡田 そのことで特に印象深かったのは、近年はPFF(ぴあフィルムフェスティバル)をフィルムセンターでやっていて、デビューした若手監督の作品も招待上映されるのですが、一度、三宅唱さんの『Playback』が上映されたんです。つまりフィルムセンターが、あの映画が上映された一番大きなスクリーンになったわけです。せっかく35mmプリントを作って、白黒じゃないですか? だから、「このスクリーンでかかるのはうれしい」と伺いました。そういう価値もあるんだなあと感じまして。
あと、劇場で見るという体験は、まず大きさがあるのと……スクリーンでプリントを見ると画質が良いとか、最初は即物的にそういうことばかりを言っていたのですが……。最近は、知らない人と一緒に映画を見ているのが良いのではないかと思っているんです。

蓮實 たぶん、知らない人と一緒に映画を見るというのは、怖いことなんですよ。隣にいる人が誰なのか、全然分からないわけですから。しかも最近のミニシアターの方が、なんとなく隣の人が怖い感じしませんか?

岡田 そうかもしれません(笑)。今は少なくなってしまいましたが、街場の映画館は逆にほっとするようなところがありましたね。

蓮實 それからやっぱり、拘束されないといけないということ。テレビやスマホの画面で見たって、拘束はされないんですよ。

岡田 映画より自分が先になってしまう。

蓮實 そうです。

岡田 だから、知らない人と映画を共有しているということが、すごく大事で……あとはそれぞれが家に帰ってしまうわけですけど、共有する場があるということが面白い。そういうことに、ようやく気づきました。

フランス映画のある種の傾向

岡田 「映画の記憶」ということで言うと、映画作家も、フィルム・アーカイブに対して近さを感じている人と、距離を感じている方がいらっしゃいますね。例えばフィリップ・ガレルはシネマテークの虫のような人で、映画博物館の中で映画を撮ったりしています。

蓮實 僕はガレルというのは、もちろん非常に優れた映画作家だと思うけれども、どこかで頽廃が根ざしているような気がする。「これでいいんだ」という風に自分に言い聞かせる、その言い聞かせ方が、高さの水準を失っていると思う。今のフランスの作家は、ほとんどそうですけどね。「これでいいんだ」と自分が思い込むときの良さの水準が、低いと思うんです。あなた方には、もっと求めているものがあるはずだと思いますね。

岡田 オリヴィエ・アサイヤスでも同じことを感じますか?

蓮實 感じますね。その傾向は、クレール・ドゥニの時から感じているんです。「これでよし」とする水準が、ちょっと下がっている、と。

岡田 ドゥニは、最初からどこか鈍さを持っていますよね。『ショコラ』の頃から……。

蓮實 だから久方ぶりに、あれが良いんじゃないですか。『女っ気なし』のギヨーム・ブラックはそういうのがないので、良いと思います。彼は「これでいい」というような設定はしないんですよね。だから良いなと思って。

岡田 フランスで監督になる人々は、商業映画系の人以外はなんだかんだ言ってもシネフィル度が強いじゃないですか? でもそういうものから吹っ切れた感じが、最近の面白い人達にはあるような気がしますね。ある時期は、シネマテーク的な映画教養みたいなものを背負って作り始める人達の良さがあったと思いますが、今は必ずしも必要条件ではないのかなという感じがします。

カノンの問題

岡田 あと一つ思うのですが、今後映画史上のいろいろな作品を後世にうまく伝える際に……先生もよく話題にされている、カノンの問題がありますよね。シネマテークはついカノンを作ってしまう、カノン作りに貢献してしまうのではないかという危険を感じるわけですけれど。

蓮實 それは、私が書いたものだってカノン的な形で読まれてしまうことがあるわけです。それから、いろんなところで……例えば釜山映画祭で「アジア映画100本」みたいなものをやったじゃないですか? で、結局、小津(安二郎)の『東京物語』が選ばれてしまうんですね(笑)。もちろん、『東京物語』は良いけれども、それもまたカノン作りでしょう。

岡田 そうですね、本当にアジア映画を広く見渡している人がたくさんいるのかという中で、作られたものですよね。

蓮實 だから僕は、絶対に『東京物語』には入れたくない。だからと言って、嫌いでは全然ないんですけどね。それから、BBCが最近「21世紀の10本」というのを、世界の映画批評家100人が選ぶという企画をやって。僕は10本なんてとても選べないから、8本目くらいから「or」と入れてもう1本付けていたんです。そうしたら、「orを全部取ってくれ」というメールがさっき来て。「10本でランク付けしてください」って。確か10位に、「黒沢清の『Seventh Code(セブンスコード)』となにか」って書いたんですよ。だって、21世紀の10本なんて挙げたら、つまらないものになっちゃうでしょう。

岡田 無理ですよね。日本映画だけだとしても、絶対にできません。

蓮實 ところがやるんですよ。みんな好きですよね。そうすると、カノン作りに当然なってしまいます。僕は今までランク付けというのはしたことがないんですけれど、少しはやってみようと思って、ゴダールの『アワーミュージック』から、ロメールの『三重スパイ』などを選んだんですね。そうしたらひどく喜んで、「ファンタスティック!」なんて返事が来ていたので、「ああ、これで良いんだな」と思っていたら、「よく考えてみるとあなたはorと書いてあって、2本入っているから消してくれ」と言われてしまった(笑)。

岡田 「フィルム・コメント」誌にも年間の映画ベストテンを選定されていますよね? あれも順位は付けていませんでしたか?

蓮實 順位は付けてないんです。付けたら、カノンになっちゃうんですよ。

「見せてやらないぞ!」という姿勢が必要

岡田 フィルムセンターも同じようなことがありまして、取り上げると、取り上げたなりに評価したということになるわけです。でも、日本映画に功労のあった監督から先に特集しなければという配慮のようなものは、どうしても出てきます。それで、やっと加藤泰に来たというところですから。

蓮實 だけど、今後フィルム・アーカイブというものはどうなるべきなの?

岡田 いま私は上映事業に関わっていないのですが、いろんな方向に放射状に動いているように見えます。要するに、引き続き上映企画を密にやりながら、映画の復元もし、コレクションへのアクセスにも応じ、子ども向けの映画教育にも力を入れ、展覧会もやれば図書室運営もある。こうやって仕事が拡大する中で、再び理念としてどう固められるのかを、考え直さないといけないと思っています。何でもできるから良いということではなく、コアとなる考え方を構築しないといけません。

蓮實 だから今は、「見せてやらないぞ!」という姿勢が必要なような気がします。「加藤泰生誕100年、見せてやらない」っていうね(笑)。「もう、見せてあげません」というくらいに……。「小津? 見せませんよ」っていうね(笑)。そういうことがないといけないんじゃないか。ゴダールは結構そういうところがあるじゃないですか?

岡田 あえて見せないわけですか?

蓮實 今は、「見せてあげます」ですよね。そうすると、変なものまで全部見れるじゃないですか? でも結局、誰も見ていないわけです。だから、「見せてやらない」、なんですよ(笑)。

『映画という《物体X》 フィルム・アーカイブの眼で見た映画』[リンク](立東舎)
著者:岡田秀則
定価:(本体1,800円+税)

蓮實重彥(はすみ・しげひこ)PROFILE
1936(昭和11)年東京生まれ。東京大学文学部仏文学科卒業。教養学部教授を経て1993年から1995年まで教養学部長。1995年から1997年まで副学長を歴任。1997年から2001年まで第26代総長。主な著書に、『反=日本語論』(1997読売文学賞受賞)『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』(1989 芸術選奨文部大臣賞受賞)『監督小津安二郎』(1983 仏訳映画書翻訳最高賞)『陥没地帯』(1986)『オペラ・オペラシオネル』(1994)『「赤」の誘惑ーフィクション論序説ー』(2007)『随想』(2010)『「ボヴァリー夫人」論』(2014)『伯爵夫人』(2016 三島賞受賞)など多数。1999年、芸術文化コマンドゥール勲章受章。

岡田秀則(おかだ・ひでのり)PROFILE
1968年愛知県生まれ。東京国立近代美術館フィルムセンター主任研究員として、映画のフィルム/関連マテリアルの収集・保存や、上映企画の運営、映画教育などに携わり、2007年からは映画展覧会のキュレーションを担当。また、学術書から一般書まで内外の映画史を踏まえたさまざまな論考、エッセイを発表している。共著に『映画と「大東亜共栄圏」』(森話社、2004年)、『ドキュメンタリー映画は語る』(未來社、2006年)、『甦る相米慎二』(インスクリプト、2011年)、『岩波映画の1億フレーム』(東京大学出版会、2012年)、『クリス・マルケル遊動と闘争のシネアスト』(森話社、2014年)など。

リットーミュージックと立東舎の中の人

( ̄▼ ̄)ニヤッ インプレスグループの一員の出版社「リットーミュージック」と「立東舎」の中の人が、自社の書籍の愛を叫びます。

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