瀬戸の潮風の通り道… 味な湊『倉橋島』ぶらり散歩

瀬戸内は『倉橋島』…

…その朝、僕は瀬戸内海に浮かぶ島に居た。

広島県呉市『倉橋島』。かつて軍港として栄え、映画『この世界の片隅に』でも話題となった呉の市街地の南に位置するこの島は、古来より瀬戸内海の交通の要衝であったという。面積は69.47平方キロメートル。広島湾に散らばる安芸群島の中では、大きめの島だ。

旅へと誘い来る波音…

夢の中で、ドタバタと音がした。徐々にまぶたの向こうから現実が波寄せてくる。トイレに起きた弟の足音が部屋に響いているようだった。ふと自分がどこに居るのか分からなくなり、目を開けて枕元を見上げてみる。すると、そこには真っ白な月明かりが輝いていた。途端に、自分が家族とともに瀬戸内を旅していた事を思い出す。太陽の光を見ると人は目が覚めるというが、月明かりに目が覚める事があるとは思わなかった。

僕はその光に吸い込まれるように、ノソノソと布団を出た。窓をそっと開けてみる。…そっと開けたつもりが、弟に「うるさい」と言われる。ほぇ…

窓から顔を覗かせれば、月光をまとった波音が浜へとささやいていた。このお淑やかさを見習いたいと思ったり。

暫し、さざ波に耳を寄せる。穏やかな瀬戸内海の声は、心の片隅に積もっていた都会の喧騒を、鮮やかに塗り替えてくれるようだ。午前4時30分。時計の針は、夜と朝を縫い合わせている。再び布団に潜った弟とは裏腹に、僕は完全に目が覚めた。

波音が僕を誘っている。

夜明けの『桂浜』

泊まっていた宿のすぐ隣には、『桂浜(かつらがはま)』と呼ばれる真砂の浜があった。万葉集にはこの浜の情景を詠った歌がいくつもあるといい、今日では『日本の白砂青松100選』や『日本の渚百選』にも選ばれているほど。その美しさは折り紙付きだ。そんな浜も、今朝は僕ひとりの足跡が月に照らされるだけ。

凪の浜辺に佇んでいるうちに、少しづつ空が明るくなって来た。打ち寄せる波にも光が増す。

その優美な夜明けの姿は、僕のスマートーフォンのカメラアプリを起動させていた。太平洋の波は近くでカメラを向けるとレンズに滴を刺す勢いで向かってくるが、瀬戸内のさざ波は接写をしてもなんのその。穏やかそのものだ。

そうこうしている間に、空はみるみる明度を高める。少し潮風も吹いて来た。さぁ、今日が始まる。また歩き出そうか…

潮風の指す『桂濱神社』

浜を東へ少し歩くと、万葉集の歌碑があった。その昔、この島は『長門島』と呼ばれていたそうな。古来よりこの地を美しく思い、歌に詠んだ人達がいると思うと、遥かなロマンを感じる。

遥かなロマンと言えば、日本全国どこを旅しても“神社”というものに出会うから面白い。歌碑の斜め前に目を移すと…

青松の向こう側に、大きな鳥居があった。浜から内陸へと参道が続いている。ここはひとつ、海から陸へと流れる潮風を追いかけるように神社へお参りしようか。…とか言ってみたくなる。

鳥居には『桂濱神社』の文字。その高さもあり、なかなか荘厳。今度は一眼レフカメラのシャッターを切る。

県道35号線を越えれば、神社の境内になるようだ。朝空へ続く階段が神々しい。

階段を登ると、本殿が見えた。大きな神社のように華美な装飾はないが、素朴な風情の向こう側に歴史の面影が感じ取れる。

この社(やしろ)は元来、海の神・航海の神とされる宗像三女神が御祭神だとか。そうしたところからも、この地が古来より海洋交通の要だった事が伺える。

実はこの桂濱神社。成立した室町時代の神社建築の特徴を色濃く残しているという。例えば、本殿の庇回りの繋ぎに『海老虹梁(えびこうりょう)』を取り入れる先駆けであるとされているほか、『一間社見世棚造(いっけんしゃみせだなづくり)』の三棟の玉殿も薄長板葺(うすながいたぶき)の珍しいものだという。また神社建築様式のひとつである『流造』の分布を知る上でも、この社は貴重な存在だったりするらしい。そんなこんなで、本殿は国の重要文化財だというから、どこで何に出会うか分からない。

さて、何に出会うか分からないと言えば、浜辺で写真を撮っていた時の事だった。地元の方と見られるおじさんに出会い、「あっちに『御座船』があるけ、見て来んしゃい!ええ写真撮れるじゃろ!」と教えてもらっていた。

あっちとは…
こっちだったかな…?

時の海を渡るような『御座船』

…水路に沿って県道35号線を西へ少し歩くと、それらしきものが見えてきた。

近づけば、御座船についてを語る看板があった。御座船とは元来、貴族や大名などが乗る船の事である。そして毎年夏になると宮島の厳島神社にて行われる管絃祭(かんげんさい)にて、御祭神を乗せて御座船が瀬戸の海を渡るという習わしがある。その御座船が、古来よりこの倉橋島で造られていたのだとか。そして昭和37年と昭和61年に建造されたものが、この場所に納められているのだそうな。

知らなかった…
父の故郷である広島はこれまで幾度となく訪れており、宮島も船舶も大好きな僕とした事が…

それにしても、朝の空気も相まって、僕にはどうにも魅惑の空間美である。水路に描かれた純な彩りは、さながら時の海を渡る調べだろうか。

朱に打たれた厳島神社の神紋である亀甲紋も、旅情を宮島へと運ぶよう。

そうして暫し時を忘れ御座船の前に佇んでいるうちに、陽はさらに昇り、風も熱を増してきた。さぁそろそろ宿に戻ろうかと歩き始めた時、また面白いものを発見してしまった。

島の由緒はここにも…『日本最古のドック』

御座船があった水路は、少し進むと四角い入り江のように姿を変えた。どうやらここはかつて船を造る場所、すなわち建造ドックだったようだ。それも、ただのドックではない。なんと、日本で一番最初につくられたドックだそうな。

江戸時代にこの倉橋島で、天然の入り江を改良した船渠(せんきょ)、つまりドックが考え出されたという。古来より瀬戸内海航路の要衝であったこの島は元々良い船を造る場所として知られていたようだが、砂浜に代わってドックで造船が行われるようになった倉橋島はさらに造船文化の一翼を担うようになり、明治に入れば和船のみならず西洋型船にも対応する為さらに大きく改良されたとか。もっともドック自体は江戸よりも遥か昔、古代エジプトにもあったとされるが、それとは別に江戸の鎖国の時代にこの倉橋島の人々が改めてドックを考え出したというのだから、この島の真髄がどれだけ船とともにあったかが伺える。

さて、そんなドックの隣りには、また神社があった。

この神社の由緒は分からなかったが、この船渠や航海の安全を願って建てられたものなのかもしれない。鳥居をくぐった潮風は、船渠からその先へと流れて行った。

鮮やかな帰り道

ドックから南を向けば、そこは散歩を始めた桂浜への石段だった。宿へ戻る前にまた少し浜に出てみる。

波の色は夜明けの深藍から、陽射しをまとった水縹(みずはなだ)へと塗り替えられていた。

実はさっき出会ったおじさんは、もうひとつ面白いものを教えてくれていた。桂浜から西に目を向けると、それは湾の向こうで朱を放ち立っていた。

倉橋島の西にそびえる『岳浦山』の東壁には、大きな岩がいくつも露出しているのだ。岩の表面が朱く見えるのは、長い時を経て苔むした為だという。その形から『亀石』『鯨石』『重箱石』…と、岩ひとつひとつに名前がつけられている。一番大きな『立石』は高さ約40mで、かつて倉橋島の漁船はこの岩を帰帆の目印にしたのだとか。この島ではどこを向いても、海とともに生きる人々の航跡が波打っている。

さて、僕も宿に帰ろう。ほかほか朝ご飯が待っている。

それは、潮風の通り道…

そんなこんなで、2017年5月のとある朝。僕は瀬戸内海に浮かぶ倉橋島を、ぶらり散歩した。

…と言っても、この日めぐったのは島南部の桂浜を中心としたほんのちょっとの一帯。桂浜から少し東へ歩けば、1200年以上前の姿を復元した遣唐使船も納められているという『長門の造船歴史館』があり、ここも興味深かったが時間の関係で訪れる事は出来なかった。また本州との海峡にして瀬戸内海有数の要衝である『瀬戸の音戸』は、風光明媚な土地としても有名である。

僕は深淵なこの島の魅力の隙間を、ささやかに航したまでなのかもしれない。それでもひとつ確かに言える事は、数ヶ月前まで名前も知らなかったこの島が、ほんのちょっとの滞在で好きになったという事だ。

遥か古来より瀬戸内海の交通を支え、その軌跡が今も色濃く刻まれている倉橋島。そんな島の姿は、さながら歴史と旅人を乗せた潮風の通り道のように、僕には感じられた。

◆ 画像クレジット
1・3〜24枚目 – 筆者撮影
2・25枚目 – Pixabay

宮沢信太朗

1992年1月7日生まれ。シンガーソングライターを一応の本業とするも、その活動は何処へやら…。現在は、舞台音響や映像制作などを行う。ブログが好評であった事から、2017年より一人旅のコラム等を中心にエッセイを書く事も始めた。なお執筆は非常にマイペース。2010年に音楽レーベルを設立。2012年度の日本作詩大賞新人賞入選。2015年3月に日本大学理工学部を卒業。同年4月より同大学と共同研究を開始。

ウェブサイト: https://miyasawashintaro.net

Twitter: @Shintaro_Mysw