都市伝説「武田信玄の隠し金山に女郎たちの怨念心霊スポットがある」って本当!?

大河ドラマでも大ブームが起きた”武田信玄”であるが、その信玄の軍資金として、戦国最強の武田軍団を支えたのが、甲斐の金山であった。

その中でも、いわゆる”信玄の隠し金山”として栄えたのが、「黒川金山」である。
今日では、この地は多摩川の上流にあたるため、東京都の水源林として採掘は出来なくなっており、当時の鉱山跡は、完全な廃墟となっている。

金山の発掘は信玄の父、信虎の頃より始められ、信玄の頃にピークを迎えたというが、実際、信玄も論功行賞の折には、手柄を立てた配下の武将に対して、甲州金の塊を手づかみで与えたというから、そういう場面で多く使われたのであろう。

しかし、破竹の勢いを誇った武田軍団も、信玄亡き後、後継者となった勝頼の代には、織田信長・徳川家康の連合軍との長篠・設楽ヶ原の戦いで惨敗した以降は不運続きで、ついには織田・徳川勢に甲斐を蹂躙されるに至った。

彼らに隠し金山の所在を知られることを恐れた勝頼は、黒川金山を廃坑とすることにし、その秘密を知る者たちの{抹殺}を図ったのだ。

当時、黒川金山には「黒川千軒」と呼ばれる、鉱山住宅や鉱山夫たちの慰安施設があり、そこには大勢の酌婦や女郎たちがいた。

こうした女たちの口から、金山の所在が判明することを恐れた勝頼は、口封じを指示する。

この金山の足元を流れる柳沢川の深い淵の上に、細工を施した宴台を組んで、風流を楽しむ慰労の宴を開くことにした。ちょうど、京都の川床料理のようなイメージだろう。

その舞台の上には、55人の女郎が招かれていたという。
彼女らには、酒肴が与えられ、宴たけなわの頃には女郎たち自らが舞を舞っていたその時、突然に、この縁台宴台を吊っていた藤づるが両岸から同時に切り落とされた。

今日のように、水泳の授業など無かった時代のことである。
女郎たちは、華麗な衣装を身に付けたまま、深い淵に落ち、激流に流されて全員が溺死したのだ。。

彼女らが落とされた淵は、「おいらん淵」もしくは、「55人淵」とも呼ばれ、彼女らの溺死体は、遥か、下流の丹波川の川岸にまで流れ着き、地元の村人たちによって手厚く葬られた。

その漂着地には、彼女らを供養する「おいらん堂」が建てられ、地元には、遊女平、女郎郷、遊女屋敷、女郎屋敷などといった地名が残されている。

この話は「武田信玄の隠し金山に女郎たちの怨念心霊スポットかある」という”都市伝説”として現代に語り継がれているが、私の思うに恐らく、55人という具体的な数字からも、大量殺戮は実在したのだろうと考える。

事実、このおいらん淵は、多摩地区や山梨の若者たちが肝試しをする心霊スポットとして有名なのである。

(所在地)「おいらん淵」:山梨県甲州市塩山一之瀬高橋
(交通) 山梨県甲州市の国道411号線(青梅街道)沿い

写真:写真AC

ガジェット通信寄稿しています。1995年設立・出版編集プロダクション法人代表取締役兼カメライターの人。出版メディア業界歴20年。単行本50冊、雑誌/新聞100誌以上の執筆・取材・撮影・編集に携わりました。◆各種ご依頼などはこちらへ◆