【スペインの外国人】ヌーディストビーチ

  by 吉原 久美子  Tags :  

スペインのヌーディストビーチにはヨーロッパ中から人が集まります。ヌーディストという言葉はあまりに直接的すぎるからかあまり使いません。一般にはナチュラリストと言います。自然という意味のナチュラルからの派生語ですが、ナチュリストとナチュラリストの二語があります。前者は自然を理解しちゃんとした知識を持って自然と行きていいる人、つまり生物学者等を指しtます。そして後者がヌーディスト、体ごと自然な人々です。

村上春樹氏が『遠い太鼓』でギリシャでのヌーディスト体験について書いていますが、実際やってみるとごく普通の日常的出来事です。太陽に浴びる、普段は日陰の身の体の部分にも日を当てるというのはなかなか素敵なことです。春樹氏もやってみるとなかなかよかったと書いています。それって混浴岩風呂と同様のことなんですね。江戸時代に何度も混浴が禁止されたという記述を読むと、反対にあの頃は混浴が普通にあったし、それを庶民が好んでいたのだということがわかります。

40年近く昔のことになりますが、従姉妹たちと伯母と一緒に大分県の温泉に行ったことがあります。入り口は男女別々なのに中はつながっていて、入ってみると混浴でした。女性たちは『女のテリトリーを広くする。』という団結した目的でどんどん移動していきます。平日だったせいか男性が少数で小さくなって端っこに行ってしまいました。『広々とした風呂は気持ちええなー。』と伯母が満足そうに言っていました。それが私の子供時代の原風景にあるせいかヌーディストビーチはそんなに抵抗がありませんでした。

80年代にヒッピーだった夫はヒッピーの聖地であるインドのゴアでヌーディストをしていました。その時はタオルさえ持たずに現地のゆったりしたズボンだけ履いてビーチに行っていたと言います。ヌーディスト=ナチュラリストは本来何も持たないという理念から派生しているのにモノを持ちすぎるというのが元祖ナチュラリスト(おまけに彼は生物学専攻だったのでナチュリストでもあります。)としての意見です。

現実には『元祖』ナチュラリスト世代は日本で言うところの『団塊の世代』と重なります。ですから夫よりもう少し上の世代、つまりビートルズの世代です。その元祖たちが今では娘、(もしくは息子だけれど私が見るところ娘ばかりです。)と孫たちを連れてファミリーヌーディストを楽しんでいる光景をよく見かけます。こうなるとやっぱり混浴風景です。温泉と同じです。ミネラルたっぷりの海の水は体にも良いのだと思います。

多分、60年70年の反キリスト的動きだったヌーディストたちのとんがったところがなくなって本来のナチュラル志向、言い換えればアジアの文化を目指す一つの流れみたいなものがやっと今現実化しているとも言えます。その一方でタブーが減っている現在、それが反〇〇な動きではなくシンプルにちょっとおしゃれな動きになってしまってゴクゴク普通の人たちが裸になっています。本来のヌーディストは反キャピタリズムというか、『物を持たない』という信念の一つのエクスプレションだったはずで、タオルさえ持たずに海に行って裸になっていたのですが、今ではたくさん物を持ってきています。椅子、パラソル、小型冷蔵庫、数冊の本、ラジオ、などなど。

私が一番驚いた光景はヌーディストと普通に水着を着ている人が普通に話しているのを見たときです。まあ考えてみれば、(考えなくても)どちらも人間なんで話すのは当たり前だし、ヌーディストも非ヌーディストも特別に宗教やイデオロギーが全く違うわけでもなんでもないのだからあたりまえです。それでも未だに不思議な気持ちになってしまいます。

たとえヌーディストであってもドイツ人はいかにもドイツ人らしくそこにいるのが興味深いです。彼らは大抵ちょっと素敵で輝いた腕時計をして、レイバンのサングラスをし、パナマ帽をかぶっています。そして、忙しげにビーチの端から端を往復しています。もっとアジア的にダラリンとしていてもいいのになぜかしっかり動き回っています。

スペインに住んで17年になります。 現在 日本人の全くいない 天本英世さんの灰が眠っている カソルラ山脈の麓の村に住んでいます。 夫はマドリッド出身のスペイン人。 子供は3人。 そして母は92歳まで13年間を私と一緒にスペインの生活を楽しみました。 コンセルバトリオのヴィオラの学生でした。アンダルシア認定調理師

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