「軽蔑していた愛情」考~世を儚む少女たちに想像力を寄せて~【AKB48の歌詞を読む(1)】

  by ちゅる  Tags :  


今回は、私の好きなAKB48の楽曲「軽蔑していた愛情」を読み解きたいと思う。
それが、世俗的だという批判には、こう返したい。文学の枠の中にあるものが、すべての表現ではない。枠の外にあるもの、枠への疑問を持って行う表現こそが、文学の真髄に近しい。壊さなくてもいい。守ってもいい。けれど、それが何かを知らずに、壊そうとしたり、守ろうとする想像力の欠如を起こしている人に対して、私は、表現を語りたくない。つまり、一般的に世俗的、大衆的で、いわゆる純文学の世界のように、ハイソでない表現の中にこそ、固定概念に縛られない、真に自由な表現があると私は確信している。それらを発掘していく活動を通してこそ、活字という限られた枠の中で、持ちうるすべての想像力に拠って、その文字列を思考や現実と照らし合わしたい。真実は分からなくても、少しでも自分の中の、視野・思考の枠を拡張し続け、多様性を受容できる想像力を持ち得たい。そう、決意し、歌詞を読み解くものだ。

硬いことを言ってしまったが、私自身の好きなものを好きなように語る。そのスタンスは変わらない。どうぞ、肩の力を抜いて、閲覧くださると幸いだ。

まず、その歌詞を以下で確認してほしい。
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND52064/index.html

いわゆるメディアシーンに登場するAKB48の楽曲との差に驚いた方もいるかもしれない。ヘビーローテーション、Everyday、カチューシャ -、フライングゲットなど、明るいイメージの楽曲の対極にあるのがこの曲だ。

歌詞の中では、その一行目から、少女らの社会への無関心さが伺える。いや、より正しく表現するなら、社会に対する自分たちの無力さを覆い隠すための無関心というポーズといったところだろうか。
テレビで伝えられる悲劇の横で、携帯電話でメールを打つ。すべては、メールの絵文字のように、色があり、形があるが、主張がない。個性がない。決められた枠の中にいる。そのことに嫌気は差している。しかし、もう、自分ではどうにもできない。自分の将来も。この社会も。偏差値次第の階級、つまり、従前通りの学歴社会残る中で、その階級によって、未来が定められている。そこに生まれる閉塞感を彼女らは鋭敏に感じ取っている。(ここには、東大から官僚へというエリートコースを目指したものの、その道には進まずして、成功を勝ち取った秋元康氏の学歴社会へのアンチテーゼ、その社会から落ちこぼれたものへのエールが見え隠れしている気がしてならない)
閉塞感が生むものも彼女らは目撃しているはずだ。けれども、大人たちは、ピント外れの答え探しをしようとして。世を儚んで、鳥になろうとした少女の真実に迫ろうとしない。曲名にあるように、彼女は、彼女らは、愛情を軽蔑しながらもそれを求めている。そこには、思春期の、等身大の彼女らの気持ちが見えるようだ。大人たちは、気づいてくれない。自分たちも、情けなくて、それを求めることができない。大人と大人になりかけの彼女らの間の溝は深まるばかり。社会への不信感は募り、閉塞感の被害者が屋上に上り詰める。鳥になる前、飛び降りる前に、屋上に靴を揃える行動は、イイ子を演じてきた彼女らの抜け切らない演技なのか、それとも、最後に放った大人たちへのあてつけなのか。
彼女らの探す優しい目はどこにあるのだろう。彼女らを抱きしめられる「誰か」はどこにいるのだろう。
閉塞感に満ち満ちたこの社会では何もかもが風の中。何も見えない。彼女らが感じている閉塞感は、この社会の閉塞感につながっている。彼女らもいつかは大人になる。その時、この閉塞感は打破されるのだろうか。
せめて、僕だけは、ピントの外れたことを言わずにいられる大人でいたいと思った。

参考サイト:http://www.musicman-net.com/relay/86.html

文章を書くことが好きで、ずっと書き続けています。 センテンスの短い文章を書くことに定評があります。 いつもわくわくを胸に。 mail:tyurunnu@livedoor.com