「生きられない」生から「生きられる」生へ

  by 東雲  Tags :  

 誰しも生きていれば様々な感情に苛まれることがあるだろうと思います。たとえば、日本では年間約3万人が自殺によってその命に終止符を打っている。どうなのでしょう。とても痛ましいことにはちがいありませんが、それでもどこかで、3万人しか自殺していないのか、と感じる自分がいる。つまり、それくらい自分にとって死が身近なものなのでしょうね。少し仲良くしていたことのある知人にも、自殺の存在が近いというようなことを言っていた人がいましたが、まあ、わからないではありません。もちろん、自殺が美しいものであるとか、最善の解決策であるとは思いませんし、そんな主張をする気は毛頭ないのですが、自分がもう限界だと感じてそれを表に出そうものなら、「みんなそうだ(みんなつらい/みんな我慢している)」などと言われてきたものですから、じゃあ何故年間に3万人しか自殺していないんだ?と思いますし、そもそも何故あなたは自殺せずに今日まで生きてるんだ、と思うわけであります。

 個人的な話はともかく(死にたいとは思いませんし)、自殺について少々考えてみましょうか。

自殺願望と希死念慮

 自分も近頃になって知ったことなのですけれども、どうやら同じ死を志向するものでも「自殺願望」と「希死念慮」には違いがあるらしい。

・端的に言えば、死にたいという思いが「自殺願望」で、死ななければならないという思いが「希死念慮」なのです。

・「自殺願望」は、生きているのが嫌だから死にたいと思ったり、死ねるものなら死にたいと抱く思いで、「希死念慮」は、死ななくてはいけないと思い込んでしまったり、死にたいという言葉が頭に浮かんで離れないなど自殺することを義務的に思っているものなのです。
(http://jyu-q.com/pcj/psychotherapy/mood_disorders/depression04.html)

 この定義を借りるのであれば、昔の自分は自殺願望を抱いていて、今の自分は希死念慮を抱いているのだろうということにはなるのですが、まあ、そんなことはともかく。
(※注:筆者に精神疾患などはありません。)

 途方もなく何かから(あるいは、何もかもから)「逃げたい」という意味での「死にたい」は、ままあることなのかな、という気がいたしますし、ある種の健全さをあらわしているようにも思えてきます。そりゃあ、つらかったり悲しかったりしんどかったり忙しかったりしたら、逃げたしたくもなるでしょう。そこで踏ん張ることだけが必要なわけではないと思うのです。
 友人に「マニフェストは『逃げよ、生き延びよ』であるべき」と言った奴がいましたが、どこかで踏ん張れなかったら、無理をしきれなかったらお終い、ではない。そりゃあ死にたくもなるよな、なんて思ってぼんやりする時間だってあっていいのです。

 対して、もう死ぬしかない、死ななければならないという思い込み(敢えてこう断言しておきますが)は、ちょっと不思議な感じがいたします。義務であるということはつまり、積極的に逃げようとか、解放されようとか、そうしたニュアンスで望む死ではありません。
 死ぬことしか選択肢がないというのを、もう少し具体的に考えてみると、と申しますか自分の経験から述べると、とにかくダメなんですね。どういうことかというと、自分はなにもできないとか、自分にはなにも(能力や持っているものが)ないだとか、そういう風に思ってしまう。すなわち、努力でクリアできるならそれでいいんだけれども、そんな風にはできない(なにをやっても報われない)から、それじゃあ死ぬしかないな、と。
 ただ、ほんの僅かに残った理性で考えるのであれば(それがあるから一線を越えずにいられるのでしょう)、おそらく、そこまでの無能でもないのです。ときどき、友人なんかの話を聞くと、そこまで思い詰めることもないのかな、と感じますし。けれどもまあ、ここから抜け出すにはそれなりに時間がかかりそうです。「生きられる」ようになるまで自殺しないのが個人的な目標なのですが、それだけの余裕すらなくて自ら命を絶ってしまう人も少なくないのだろうと想像します。

メランコリー

本来、誰かから不当な否定を受けたならば、それに対しては怒りを覚えるのが正しい反応なのですが、このように得体の知れない劣等感に捕えられてしまった場合、もはや怒りを覚えることはできません。
その結果、その人は自分自身をさらに否定することになります。
つまり、本来ならば相手に向かうべき攻撃性が、自分に向かってしまうことになるのです。
(http://www.koho-counsel.com/yougoshu/kishi.html)

 おそらく名前くらいは恐ろしく有名であろうフロイトは「喪とメランコリー」という論文を書いているのですが、それがまさにこんな感じの話です(いやぜんぜん違うけど)。
 うまく説明できるかわからない上に、自分の頭では相当単純化せざるを得ませんが、フロイトの言うメランコリーは、何らかの喪失です。メランコリーの状況(状態)にある人というのは、何かを失っている。本人もそれが何かはわからないんだけれども、でも、本来ならそこに向かうはずの怒りや悲しみが自分に向かってしまう。この理不尽なまでの自己への攻撃(嫌悪、否定)が鬱病の症状、ということになるのでしょう。

 先ほどの引用にはこのような続きがあります。

希死念慮とは、そうした感情がもっとも顕著な形で現れたものです。
したがって、この状態を脱するためには、自分自身に向かってしまっている攻撃性を本来向かうべき方向に反転させなければなりません。
つまり、一般的に希死念慮のカウンセリングにおいては、「内省」よりもむしろ、自分を取り巻く周囲の性格や考え方の分析のほうがより重要となります。
(http://www.koho-counsel.com/yougoshu/kishi.html)

 いやあ、まあ、さすがにリビドーの備給という表現はしないつもりですが、とにかく、自分へ向いた否定的な感情(あるいは評価)について、それを外部に帰結させることが必要なのでしょう。

 こういうのはあまり楽しい話ではないですけれども、「自殺願望」と「希死念慮」の違いから、そうした観念を抱く人への対処法が多少なりと異なるであろうことが伺える気がします。「生きられない」生から、「生きられる」生へ。すなわち、「死にたい」という願望にしろ「死ぬしかない」という義務感にしろ、生きてはいられないのだという結論を、どうにか「生きていける」ものにする他ない。でなければ、自分も誰かも命を続けられなくなってしまうのですから。

(画像:筆者撮影)

25年くらいしか生きたことのない若造です。

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