自由とは不自由である

  by 東雲  Tags :  

自由というのは、得てして不自由である。

というと、なんだか小難しい感じがいたしますが、べつにそういう話がしたいわけではなくてですね。謂わば、自由裁量とでも申しましょうか(ここでは法的なものを話柄にしたいわけではございませんので、厳密に捉えるのであればこの表現は適切ではありません)、兎にも角にも、しなければならないことに対して自由なやり方を用い、自由に時間を使ってよい、という状況について述べようと思います。

たとえば、通信教育。チャレンジ、もとい進研ゼミのお世話になったことのある方はそれなりにいらっしゃるのではないでしょうか。あれを誰に言われずとも真面目にコツコツできるのであれば、おそらくなにをやっても伸びるのではないかと思ってしまいますが、つまり、そういうことです。
というのも、家で自分のペースで勉強をするより、学校で授業を受けているほうがラクなわけです。否応無しに進んでいってくれますし、とにかく、決められた時間に決められた場所に居ればよい。

このことは、通信教育に限った話ではありません。生きていれば、すべきことなんていくらでもあるでしょうが、それが会社なり現場なりに行けば済むことなのか、自分で時間をつくって進めねばならぬことなのかで、だいぶ負担がちがってきます(決められた時間に決められた場所で責務を全うするのに努力を要しない、とは断じて思いませんが)。
趣味で結果を出そうとか、個人で資格の勉強をしようとか、はたまたダイエットをしようだとか、みなそうなのではないでしょうか。

それが冒頭の話へと繋がっていくのですが、自分で決めて、自分で時間をつくって、自分の判断ですべてを組み立てていくことの、えも言われぬような不穏さを、「自由というのは、得てして不自由である」という言葉に込めてみました。
もちろん、大なり小なり、自己を律するだとか、自分をコントロールするということは大切ですし、必要です。けれども、どうでしょう、それが行き過ぎてしまえば、なんとも息苦しい。

個人的に感じるところですが、人間というのは、じつに非合理にできています。無駄のないスケジュールを完璧に立てたところで、100%それを実行できる人は相当稀有でしょう。
さて、ここで表題について触れたいのですが、「自由とは不自由である」というこの一見矛盾した命題をどう捉えるのかと申しますと、つまるところ、ある程度、自分の自由な裁量に任せないよう、不自由を与えることで、自由を感じられるのではないか、ということです。選択しないことも、重要です。

平たく言えば、なんにしても、続けねばならないことは習慣化し、自分にとって「決められた時間に決められた場所」でそれを為す、という状況に持ち込んでしまえば、一気に心が軽くなるのではないでしょうか。

(画像:筆者撮影)

25年くらいしか生きたことのない若造です。

ウェブサイト: http://spotlight-media.jp/writer/74199 https://note.mu/shino_