【北茨城】新選組局長芹沢鴨の新史料?! 前名といわれる神官の記述見つかる

  by rekishikenkyu765  Tags :  

12月6日付けの「茨城新聞」で芹沢鴨についての新史料が紹介された。
14面に「新撰組局長の芹沢鴨 出身地は北茨城か 幕末の日記新史料発見」というタイトルで掲載されている。筆者は同新聞相談役の市村眞一氏で、発見を行ったのは水戸市在住の郷土史家小林義忠氏である。
同記事によると、芹沢鴨の前名は「下村嗣次」であるとされている。それは後の新選組局長近藤勇が書簡の中で、下村は芹沢鴨の前名だと言及したことを根拠にしたものだ。下村家は多賀郡松井村(現北茨城市中郷町松井)にあり、「下村嗣次」は芹沢家からその家に養子に行ったのではないかといわれていた。しかし、それを証明する史料は発見されていなかった。
今回見つかったのは『明善先生日記』(別表記に『石河明善日記』)の記述。
著者の石河明善は水戸藩では桜田門外の変を起こした過激なグループとは距離を置く鎮派の代表格である。
下村嗣次がかつて所属していた玉造勢という現在の行方市玉造の郷校に集結したグループについて日記にメモした「政府(水戸藩庁)より名指召捕人別」という項目から発見されたかたちだ。
同史料に下村嗣次は「手綱領松井村神官次郎八の倅 次郎八百姓より神官御取立の者也」とあるという。
これによって下村嗣次という人物が神官下村祐(次郎八は前名)の養子という説は裏付けられたことになるだろう。

なお残る問題点

芹沢鴨が下村嗣次と同一人物かということについては疑問点が残る。鴨の没年は諸説あるが、30代前半といわれている。
ということは1830年代の生まれである。嗣次には常親という1844年生まれの長男がいたとされるので、計算すれば10代前半に作った子供ということになり、とてもではないが辻褄が合わない。最高齢の38歳という記述に信用性がないことは以前にも書いた。
ただし、これは常親が嗣次の実子であるという事を前提にしており、常親は祐の子であったが幼かったため養子にしたのが嗣次だった。しかし、行方不明になったので、常親が嗣次の養子というかたちで家督を継いだとすれば辻褄は合うだろう。また、神官になった時期も20歳を過ぎてのことであれば、剣術の素養を身に付けていたのも無理はない。
また今回の史料ではどの家から養子に行ったのかは分からないので、その部分もまた検証がいるだろう。
一つの史料が見つかっても、それを裏付ける事を怠ると、なかなか事実は見えてこないということである。

※画像はウィキペディアから転載

一歴史研究者です。現在は幕末水戸藩などを中心に調べている者です。歴史関係の記事を書いていこうと思います。