著作権制度とアップルのビジネス

  by あらい  Tags :  

この間、本の自炊を業者が料金を貰って手伝う行為が、提訴されました。現行の著作権制度では、著作物の利用される媒体が変わる毎に別の利用権を設定し、その権利毎に料金を徴収するシステムになっていますから、紙からpdfに媒体が変わるんだったらそれは別料金、と言うのは間違っていないと思いますが、それでは私的利用権の話はどうなったんだ、ということになる訳です。私的利用を業者が助けるのは、本当に違法なのか、という所が、グレーゾーンになってしまう訳です。

音楽の世界では、著作物の私的利用権はどんどん縮小に向かう方向です。デジタル環境下での私的利用権は、レンタルショップ経由のものの他、極一部以外はほぼ認められていない、という状況だと思います。

そういう意味では漫画や書籍等も同じように、私的利用権はどんどん縮小されていくと思います。これは良い悪いと言うよりは、トレンドと言うしかないことだと思います。

言える事があるとするなら、音楽では私的利用権を縮小させた時期と、音楽産業が売り上げを落とし始める時期はリンクしている、ということでしょうか。新譜をパソコン環境からしか試聴できないようにしてしまったが為に、それが新譜のプロモーションの大きな足かせとなってしまったことは、想像に難くありません。加えて売れる音楽の傾向が、パソコン環境に強い、社会の中での一部の層の好みに偏ってしまっている要因にもなってしまったようにも思えるでしょうか。パソコンが生活の中に占める割合の低い人達の好みが、マーケットの中で形として反影されにくくなってしまった傾向は、否定できないと思います。

一方で、今の若い人達の携帯音楽プレーヤーの中身の半分以上がネットからのダウンロードデータで埋められ、自分で買っているものは殆どない、という現実もあります。それはマーケットの中で、売り上げの足を引っ張っている確かな痕跡でもあります。

これは非常に難しい所の問題だったりします。

漫画等を含む書籍全般でも、私的利用権の幅を縮小してしまうと、音楽と同じようにマーケットの縮小を招いてしまう側面はあると思います。それでも、それを織り込んだ上で私的利用権は縮小する、というコンセンサスが著作権ビジネス界を支配しているようです。

著作権という、オリジネーターの利益を守るという本来の仕組みが、ネットの時代になり、それまで想定できなかった抜け道に翻弄され、制度そのものが袋小路に迷い込んでしまった部分はあるように思います。著作権の有り様を根本から考え直さないといけない部分も、同時に生まれてきているような気もします。

その著作権の有り様、という部分の話を少し掘り下げてみます。

音楽で著作権と言えば、一般的には作詞と作曲のことで、作詞と作曲のみにそれに対する金銭徴収は保証されており、それ以外の演奏も編曲も、いくらオリジナルなものであっても、それは著作権としては“隣接する権利”として認められているだけで、実際に著作権として金銭を徴収できる範囲は、日本ではもの凄く狭いのが現状です。

作詞と作曲の部分に於いての売り上げが激減している今の音楽ビジネスですが、時期を同じくして「ボカロ」の文化が若い人の間で浸透し始めました。「ボカロ」の文化は、音楽の評価を作詞と作曲のみに偏るのではなく、「歌い手さん」「ミックス師さん」のように、隣接権の部分も作詞作曲と同等、もしくはそれ以上に評価するセンスが根付いていたりします。「ボカロ」で制作された楽曲の中で人気の高い曲、或は未発掘の楽曲を「歌い手さん」が上手にアレンジし直してパフォーマンスし(カバーして)、その同じ楽曲での出来を他者のカバーしたものと比べて評価し合う、ということなのです。ある意味、現行の著作権制度の元での音楽の評価基準とはベクトルの違う文化が、そこでは育まれている訳です。

そこでは、今まで著作権の本体として評価され続けてきた部分の価値が、相対的に下落した、ということなのだと思います。それはデジタルコピーによる売り上げ減とは、無関係に起きている現象、という所にポイントがあるように思います。

出版事情に話しを戻せば、昨今の新著の発行事情として、発行される新著にオリジナリティはなく、既に出版されている本の内容をうまく再構成して読みやすくしただけのものが売れる、という現実があるようです。全く新しい発想(それが本当の意味でのオリジナルだけど…)の本は、むしろ売れない傾向にあるようです。それら新著の価値を、過去に他人が莫大な労力を費やして生み出したものと同等に扱うのは、それはもう実態に合わない、ということを市場が無意識に織り込んできているが為の価値の下落なのだとしたら、それこそ市場の「見えざる手」と関心するしかないことだと思ったりします。

今まで著作権で収益を上げてきた方達は、おそらく、今までと同等の価値として対価が支払われることは、少なくても自分達が生きている間は2度と起こらない、という時代に突入したのかもしれません。どんなに既定の著作権を厳しく解釈、適用してみた所で、その価値を維持していく事は既に難しく、むしろ今まで著作権としては対価の徴収が難しかった分野の価値の評価の方が社会の中でどんどん上がっていき、それが次の時代の著作権ビジネスの核になっていくように思われるのです。

見ようによっては、それは他社が莫大な研究開発費を投じて確立した技術をつまみ食いしただけかもしれないAppleのビジネスモデルと、本質を同じにしているのかもしれません。

好むと好まざるに関わらず、これからの著作権ビジネスはiPhoneのコア技術である所の液晶技術やセンサー、リチウム・イオン電池等(今までの著作権、音楽で言うなら作詞作曲)を発明してきた無名のエンジニア(著作権者)達の取り分が少なくなり、それを一つの製品としてまとめあげたAppleに収益が集まってしまうビジネスモデルに、やがてその活路を見出していくようになっていくのではないでしょうか。

コア技術に大きな対価が支払われないことに対する抵抗は、もちろんあると思います。ただ、現在商売として成立する著作物そのものが過去のオリジネーターと同等の価値を持っている、とはもはや言い難く(相対的にその価値は下がっている)、過去のオリジネーターと同じ対価が支払われることはない、と考えて良い事なのだと思います。そしてそれは既に大きな「時代の波」なのだと思います。バブルの時代に、時代としての大波が全ての価値観を飲み込んでいった、あの状況にとても似ているような気はします。あそこに倫理道徳としての「善悪」等、ないに等しかったのですから。

「ボカロ」の文化は、ひょっとしたらその道なき道を今、切り開いているのかもしれません。

 

 

東京の音楽業界の隅っこで仕事をしてきました(インディーズアーティストのもろもろ、ゲーム、ラジオの音楽制作、専門学校講師等)。2014年から某楽器メーカー勤務。

Twitter: ilandcorp