地方から日本『民族』を問う漫画

  by genn33  Tags :  

                (C)野田サトル/週刊ヤングジャンプ・集英社
           
 漫画というジャンルに限らないかもしれないが、物語の舞台というと昔から、東京か首都圏の中の架空の街、という設定が多いように思う。実際、日本中の人々が、おしなべて最もよく知っているのが東京という場所である。全国放送で毎日必ず東京の様子は知らされるし、何より今や大抵の地方の人々は東京に行ったり、住んだりした事があり、また多くが肉親友人に東京に関わりの深い者を持つからである。そもそも、漫画家・作家自体、多くが首都圏在住なのだから、当然とも言えるのだが。
 こんな訳だから、作品中で渋谷、赤坂、新橋と出てきても、すぐイメージできる。反面、首都圏内には知られていない街や路地も無数にあるから、逆に作り話にも自由度がある、という事だ。架空の街が舞台というケースも多い、というのがこうした理由だろう、と思われる。
 
 しかしこれに対して、敢えて地方を舞台にした物語も昔からあり、それらは常に新鮮さを以って読者に受け入れられてきた。多くの場合、地方を舞台にするという事はその地域についてある程度深く知り、ある意味「はぐらかせない」事実を踏まえた上で、つまり一種の制約の上で創作を行う事になる。しかしだからこそ安易に東京を舞台にした作品よりは芯の強さというか、存在の重さのようなものがが感じられる事が多いと思われるのだ。

 そんな想いを最近特に強くさせたのが、現在週間ヤングジャンプ連載中の
『ゴールデンカムイ』
である。この作品は一言で表すなら、
「中央を震撼させる、地方の物語」
である。特に、内容的に個人的に長年気になってきた事柄を扱っており、その難しい題材を作品化する事に成功している稀有な例である、と高く評価するものである。そしてこの作品化が、昨今国内に巻き起こっている日本における「民族問題」に、無意識的にせよ大きな影響を与える可能性を持ったひとつの事件である、と考えるのである。

 作者・野田サトルについては、漫画家の常で作家自身に関する情報は最低限だが、北海道は札幌近郊の北広島市出身との事で、以前にも地元北海道を舞台にしたスポーツもの『スピナマラダ!』を発表している。今回の作品は日露戦争直後の北海道を舞台に、帰還兵や脱獄囚、数十年前の戊辰戦争の生き残りたちなどによる、隠された金塊を巡る闘いを描く、という、ヤング誌らしからぬ?歴史的展望を備え、しかも独自路線のインパクトに満ちている。これだけでも、なかなか北海道外の人間が下手に手を出せる内容ではないと思わせるが、特筆すべきは、物語の核にアイヌ民族の存在がある、という事だ。この事は、むしろこれまでは北海道の人間だからこそ描けなかった、手を出せなかった云わば禁断の領域だった、とも言えるところで、だからこそ「事件」だと考える訳である。

 多くの人が知るように、これまで北海道を舞台にした小説、漫画、映画などは数多いが、先住民族アイヌを登場させた、まして物語の核に置いた作品というのは極めて少なかった。古いところでは映画『幸せの黄色いハンカチ』や『網走番外地』シリーズ*、比較的新しくて『ラブレター』、テレビならば『北の国から』などがあまりにも有名だが、いずれも全くといっていいほどアイヌ民族にはノータッチであった。あたかも、北海道を語るのに先住民族の存在など問題外である、とでも言わんばかりに・・確かに、北海道を旅していても住んでいても、多くの人にとっては接点のないのが現実なので、義務的に先住民を描く事はないのだが、『赤毛のアン』でもプリンスエドワード島には当時先住民が多く住んでいたのに、作者モンゴメリは敢えて描写を避けた、という事実も考えると、決してその土地を正しく描いた事にはならないのではないか、という疑問が残るのだ。
*『網走番外地』続編にはアイヌの男性という役柄が登場するそうです ここに訂正致します

 しかし、実は昔から漫画の世界でも手塚治虫『シュマリ』、矢口高雄『マタギ』、石坂啓『ハルコロ』など古くから果敢にこの世界に斬り込んだ作品があって、映画だとアニメ作品『カムイの剣』が知る人ぞ知るアイヌを登場させた古典と言える。小説では船戸与一『蝦夷地異聞』や上伊澤洋『風の橋』、それに熊谷達也のデビュー作『ウェンカムイの爪』にも少しだが物語の重要な要素として語られている。(『ゴールデンカムイ』でも東北のマタギが登場するように、このようなテーマに臨む時東北と北海道の作家はやはり互いに意識し合うところがあるようだ)

 しかし、アイヌ民族を題材に扱う事は、これまではほとんどメジャーというか、表舞台には登ってこない、つまり経済的、名誉的に決して見返りのある行為ではなかった。ましてや、現地の北海道人にとっては、アイヌ民族の問題は多くの場合語りにくい事、覆い隠したい過去、タブーとさえ言えるような部分であった。それは、近年まで多くのアイヌたちが祖先の地・北海道を離れ、首都圏などでの生活を選ばざるを得なかった事に象徴される、江戸・明治以来の日本人による侵略、差別、迫害の歴史である。アイヌ民族の物語での取り上げ方は慎重さを要し、映画、ゲームなどの分野にて少なからず間違った視点からの描きこみにより失笑や反感を招いてきた歴史がある。

 先住民の姿(古今ともに)を的確に描けるかどうか、はおそらくアメリカなどでもそうだが、その国や国民の成熟度に関わる指針でもあるだろう。
今作の作者・野田サトルがアイヌ出身であるかどうかは不明だが、むしろそうでない場合ならばこそ、より大きな成果と言えるかも知れない。というのも、アイヌ民族を取り巻く状況の改善に関しては日本本土の理解より何より、まず北海道の人々の意識のあり方が重要だと考えるからである。
(ただ、私自身の経験では道内出身者ではない、他ならぬ同じ東北出身の旅行者にも差別主義者が未だ見られる。正直、外見は所謂縄文人的でアイヌに近いとも思えるのに・・・これは何か、近親憎悪みたいなものなのだろうか?) 

 前置きが長すぎたが、そろそろ本作の魅力を語っていくとしよう。
『ゴールデンカムイ』の最大の魅力は、何と言っても主人公である日露戦争の帰還兵と、アイヌの少女という今までに聞いたこともないコンビが織り成す絶妙の掛け合いである。この、大国の軍人と少数民族の友人の交流劇という形は、黒澤明が映画化したロシアの実話『デルス・ウザーラ』を思い出させるが、かなりハードボイルドで殺伐とした設定上に躍動する無頼漢たちの中で、この二人の時に爆笑すら催す愛すべき道中の描きこみは周囲のコワモテ連中の人間味さえ引き出して飽きさせない。しかも、それは人間の描写のみで成立する面白さではなく、他ならぬ北海道の怖ろしくも美しい自然との関わりあってのものだという点も重要である。

 アイヌの少女、という要素はこれまでもアイヌ民族を描いた作品において常に中心的であり、それだけに議論の的でもあった。
『カムイの剣』『マタギ』などほとんどの作品で「アイヌの少女」は描かれたが、多くは不幸な背景や結末を用意されたか弱き女であり、良くも悪くも性的な彩りを添える存在であり、また理想の古き良き女性像を投影されたアイドルでもあった。
ところが、『ゴールデンカムイ』のアイヌ少女は、驚くべき事にそのいずれでもない。

「私は新しい時代の、アイヌの女なんだ!」

というセリフが印象的にして象徴的であるが、彼女は「男勝り」という以前にプロの狩猟者であり、山に生きる自然の一部である。もちろん、作家による巧妙な設定工夫あって生きるキャラクターであって、少女が「女」になる前の12,3歳であるという事、アイヌ社会においては特に女性が顔に「刺青」を施す年齢以前である事が重要な点である。云わば彼女がアイヌ社会の「縛り」に取り込まれる以前である事、性的な対象として見られる以前である事がハードボイルドにある意味余計な生々しさが加わる事を回避させている、とも言える。
 それでいて、いやそれだからこそ、相方の帰還兵とは友情とも、純愛ともとれる強靭な絆が形成されていくところが、何とも言えぬ魅力、今後を読み進む楽しみなのである。

 時代背景としては、アイヌ民族史上重要な、知里幸恵による『アイヌ神謡集』で成される
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。」
という「先住民族宣言」より少し前に当たり、まさにアイヌ民族苦難の歴史の真っ只中でもあり、また序盤に過ぎないともいえる時点なのである。物語は、戊辰・函館戦争を生き延びた土方歳三が目指す
「アイヌ民族中心による蝦夷地の独立」
と、日露戦争帰還兵による組織が目論む
「帝国政府に対する北海道の奪取支配」
という2つの巨大な野望がぶつかり合うという、大胆極まりない展開が控えているようで、まさに北海道作家による、北海道の存在意義を問う問題作となっていく予感である。
ただ、あくまでも主人公たちを通してはアイヌと和人の対立という図式は表面化させず、自然と人間の関わり、個人と個人の交感と理解が主体である点が、作家のセンスを感じさせるところだ。

 実はこの作品の登場以前、映画の世界でも事件はあった。クリント・イーストウッドの『許されざる者』日本版リメイクで、それ故オリジナルとの比較論ばかりが表立った不運はあったが、舞台が明治時代の北海道であり、これまでになくアイヌ民族の言語や文化、当時の状況が真摯に描き出された事は特筆に値した。これには監督が在日韓国人の李相日である事で、日本の民族問題を無視できない背景を持っていた事が大きいだろうが、もうひとつ北海道における映画産業の日本からのある意味での独立化を目指す動きとも関連している点は見逃せないと、私は考えている。
(これについては、またの機会に書きたい)

 ところが、そうした北海道の新時代への脱皮の動きとは反比例するかのような、「アイヌ民族否定論」の発生、横行である。ヘイトスピーチと言われる、日本に居住するマイノリティに対する攻撃の一環と見られ、始まりは民族を名乗る事で不当な賠償金と権利をもぎ取ろうとする輩が存在すると主張する事で、大多数の「日本人」である立場から憎悪を向けるという、云わばかなり古臭い、国粋主義的な意識があらためて市民権を得ようと這い上がってきた感がある。
 しかし一体、このような形で今さら「日本民族」の優位性を標榜する事に誰に、何のメリットがあると言うのか?今まで虐げてきた立場の人間が、確かに異なるアイデンティティを持つ人々を尚も傷つけ続ける事で、示せるのは日本人の成熟なのか、いや、それは退行ではないのだろうか?

『ゴールデンカムイ』は「中央」側の歴史や現況を中心に展開されてきた漫画文化を既に揺るがす力を持つが、それは北海道のこれまで表向きを支えていた観光的側面からではなく、ずっと陰となってきた、真の姿を自ら晒し出す事によって、である。これはおそらく北海道だけの話ではなく、全ての地方にヒントとして掲示された命題であり、地方が甦り新たに生きていく姿勢・覚悟が示されているように思えてならない。

山形県鶴岡市生。札幌、東京を経て全国旅生活の果て仙台在住。『電子新聞 東北復興』に2012年より毎月エッセイ、翌年より小説など寄稿中。

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