68年前の文部省教科書『あたらしい憲法のはなし』を読んでみる

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68回目の憲法記念日を迎えました。現在の日本国憲法に対しては様々な意見がありますが、憲法が公布・施行された際の雰囲気を伝える資料として真っ先に挙げられるのが1947年(昭和22年)の文部省発行『あたらしい憲法のはなし』であることは大方の一致するところでしょう。

この『あたらしい憲法のはなし』は新制中学校の教科書として作成されたもので、副読本への“格下げ”を経て1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効と同時期に廃止されましたが、その内容には憲法の施行から68年を経た現代でも普遍的に通用する内容が多くこれまでに何度も復刻版が刊行されており、また著作権の保護期間を満了しているので現在では『青空文庫』で全文を読むことも国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで原本を閲覧することも出来るようになっています。

あたらしい憲法のはなし(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html [リンク]

文部省 編『あたらしい憲法のはなし』(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1113070 [リンク]

本書の文章において、肯定・批判の両面から頻繁に引用されるのは第6節「戦争の放棄」でしょう。

 いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです(中略)そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです(中略)しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです(中略)世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。

※原文は旧字体を使用。以下同じ。

他の節にも第6節と同等かそれ以上に重要な、現代にも通用し得る様々な論点について書かれているのでいくつか抜粋してみます。

第1節「憲法」
 国をどういうふうに治め、国の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま国を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。もし憲法がなければ、国の中におゝぜいの人がいても、どうして国を治めてゆくかということがわかりません。それでどこの国でも、憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです。国でいちばん大事な規則は、いいかえれば、いちばん高い位にある規則ですから、これを国の「最高法規」というのです。
 ところがこの憲法には、いまおはなししたように、国の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは国民の権利のことです。

第7節「基本的人権」
 くうしゅうでやけたところへ行ってごらんなさい。やけただれた土から、もう草が青々とはえています。みんな生き生きとしげっています。草でさえも、力強く生きてゆくのです。ましてやみなさんは人間です。生きてゆく力があるはずです。天からさずかったしぜんの力があるのです。この力によって、人間が世の中に生きてゆくことを、だれもさまたげてはなりません。しかし人間は、草木とちがって、ただ生きてゆくというだけではなく、人間らしい生活をしてゆかなければなりません。この人間らしい生活には、必要なものが二つあります。それは「自由」ということと、「平等」ということです。
 人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、じぶんのすきな所に行き、じぶんの思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっして奪われてはなりません。また、国の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません。そこで憲法は、この自由は、けっして侵すことのできないものであることをきめているのです。
 またわれわれは、人間である以上はみな同じです。人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく、人間の下に、もっといやしい人間があるわけはありません。男が女よりもすぐれ、女が男よりもおとっているということもありません。みな同じ人間であるならば、この世に生きてゆくのに、差別を受ける理由はないのです。差別のないことを「平等」といいます。そこで憲法は、自由といっしょに、この平等ということをきめているのです。
 国の規則の上で、何かはっきりとできることがみとめられていることを、「権利」といいます。自由と平等とがはっきりみとめられ、これを侵されないとするならば、この自由と平等とは、みなさんの権利です。これを「自由権」というのです。しかもこれは人間のいちばん大事な権利です。このいちばん大事な人間の権利のことを「基本的人権」といいます。あたらしい憲法は、この基本的人権を、侵すことのできない永久に與えられた権利として記しているのです。これを基本的人権を「保障する」というのです。

第9節「政党」
 日本には、この政党というものについて、まちがった考えがありました。それは、政党というものは、なんだか、国の中で、じぶんの意見をいいはっているいけないものだというような見方です。これはたいへんなまちがいです。民主主義のやりかたは、国の仕事について、国民が、おおいに意見をはなしあってきめなければならないのですから、政党が争うのは、けっしてけんかではありません。民主主義でやれば、かならず政党というものができるのです。また、政党がいるのです。政党はいくつあってもよいのです。政党の数だけ、国民の意見が、大きく分かれていると思えばよいのです。ドイツやイタリアでは政党をむりに一つにまとめてしまい、また日本でも、政党をやめてしまったことがありました。その結果はどうなりましたか。国民の意見が自由にきかれなくなって、個人の権利がふみにじられ、とうとうおそろしい戦争をはじめるようになったではありませんか。

第11節「司法」
 こんどの憲法で、ひじょうにかわったことを、一つ申しておきます。それは、裁判所は、国会でつくった法律が、憲法に合っているかどうかをしらべることができるようになったことです。もし法律が、憲法にきめてあることにちがっていると考えたときは、その法律にしたがわないことができるのです。だから裁判所は、たいへんおもい役目をすることになりました。

第14節「改正」
「改正」とは、憲法をかえることです。憲法は、まえにも申しましたように、国の規則の中でいちばん大事なものですから、これをかえる手つづきは、げんじゅうにしておかなければなりません。

第15節「最高法規」
 国民の基本的人権は、これまでかるく考えられていましたので、憲法第九十七条は、おごそかなことばで、この基本的人権は、人間がながいあいだ力をつくしてえたものであり、これまでいろいろのことにであってきたえあげられたものであるから、これからもけっして侵すことのできない永久の権利であると記しております。
 憲法は、国の最高法規ですから、この憲法できめられてあることにあわないものは、法律でも、命令でも、なんでも、いっさい規則としての力がありません。これも憲法がはっきりきめています。

『あたらしい憲法のはなし』の全文を通読してはっきりするのは、特に第97条で「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と規定されている箇所が重視されていたことです。この箇所を11条の「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」との重複と考えるのか、それとも最重要の原理原則なので強調してもし過ぎることは無いと考えて11条とは別個に97条が置かれているのかは意見が二分されていますが、この『あたらしい憲法のはなし』の記述は憲法公布・施行の当時においては後者の見方が重視されていたことを物語っていると言えるでしょう。

画像:『あたらしい憲法のはなし』本文4-5ページ

1975年、兵庫県姫路市生まれ。商工組合事務局勤務を経て2012年よりウェブライター活動を開始。興味のある分野は主にエンターテインメント、アーカイビング、知的財産関係。プライベートでは在野の立場で細々と文学研究を行っている。

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